空の記憶に溺れる ※R18 - 3/3

 その夢を見る度に、自分ではない自分を、彼ではない彼を探して追いかけている気がして狂いそうだった。
 いま目の前で囚えてしまっている彼に向けた感情は本物なのか、自分のことである筈なのに何もかも信じられない。
 でも。それでも――
 彼の声が好きだと気付いた。彼の瞳が好きだと気付いた。彼の髪が好きだと気付いた。
 一度も笑ってはくれなかったけれど、それ以外に見ることのできた表情は全部いとおしいと思えるものだと気付いた。
 それだけは嘘偽りのない、自分自身が抱いた感情であると信じたいのだ。
 彼にプレゼントした赤いリボンはとても似合っていた。イメージしていた通りにその赤が映えたとき、どれだけ歓喜したか、きっと彼は知らないだろう。
 それでいい。
 何故なら、もうこれ以上傍においていては、いつか壊してしまうから。
 取り返しのつかない事をしてしまったと漸く気付いた。
 奪ってしまった時間を取り戻そうとしたけれど、多分、もう遅い。
 こんな一方的で歪な関係は必ずどこかで破綻する。
 夢と現実の区別がつかなくなってしまう前に、早く――

 久しく見ていなかったあの夢を見た。
 熱く、燃え盛る闇の中。まさしく火の海と言わんばかりの陰惨な光景に、アマデウスは暫し立ち竦む。
 酸素を燃料に変える音が聞こえない。激情を孕む熱量を感じない。目の前には緞帳の下りた後のような闇と、切り忘れた立体映像のような煉獄が広がっているだけ。
 炎と闇が織りなす無音の空間。そこはこれまで見た世界の中で最も現実味に乏しかった。眺めても見詰めても、この不安定で確たる世界に色を差す存在は見当たらない。
 脚を伸ばしてみる。ああ、今回はこの身体に自分の意志は宿っている。アマデウスはほっと息を吐く。しかし不安は拭えない。
 熱を感じないのをいいことに、アマデウスは炎の中へ飛び込んで行く。左右に首を振り、必死に探す。いない。
 いない、いない。
 何処にもいない。
 走れども走れども、影すら見当たらない。
 いよいよ息が続かなくなり、足がもつれ、探し回るのを止めてしまった。膝が頽れる。
 不意にピアノの音が聞こえ、顔を上げた。
 それはいつかに聴いたあのバラードだった。
 いつの間にそこにいたのか、それとも気付かなかっただけで最初からいたのか。漸く見つけた今、そんなことはどうでもよかった。燃え盛る海の中心で、あの日と同じように上体を揺らしながら誰に聴かせるでもなくただ粛々と弾き続けている。時折小さく口を開き歌を紡ごうとしているようだが全く声にならず、何かしらの違和感を覚えるのか、その度にひくりと、眉を、身体を、僅かに強張らせていた。
 彼の周囲はいっとう炎の勢いが酷かった。このまま包んで何処かへ隠してしまうような、あるいは何処かへ連れ去ってしまうかのような、そんな結界染みた意思を感じる。壁のように激しく、けれど相変わらずピアノ以外は静寂なままで、それは彼とアマデウスの間に立ちふさがった。
 どうしてか向こう側へは行けなかった。近付こうとすると、全身を刃物に貫かれるような痛みが襲う。熱さはやはり感じない。
「サリエリ!」
 堪らず叫ぶ。それが届いているのか、そもそも声になっているのか、判らなかった。
 曲が変わる。あの温かくて苦しいバラードに代わり聴こえてきたのは、余りにも聴き古した星の歌。教科書にすら載らない、口伝だけで誰もが知っている旋律だった。
 鍵盤に落とされていた視線が上がる。まるで見せつけるかのように彼を隠し続ける炎の壁の隙間から、刹那、目が合った気がした。ゆうるりと解かれてゆく唇。それは徐々に曲線を描き、血色の舌が僅かに覗く。
 彼は笑っていた。
 ――どうして?
 これまで見てきたのと同じ夢ならば、彼はありったけの憎しみと殺意を湛えて嗤うのではないか。「見ろ、これが神才を憎み追い続けてきた者の末路だ」と。煉獄とも言える惨たらしい空間の中で自身の身体を、魂を焼きながら誰に聴かせるでもないピアノをただひたすら奏で続けているのだ。粛々と、片時も絶やすことなく。
 そんな状況に置かれた彼が、原因であるアマデウスに意趣遺恨が生まれないなど誰が言えようか。
 けれどどうしてか、今にも灰にされそうな彼がどうしようもなく笑っているようにしか見えないのだ。これまで見てきたあの熾烈な憎しみも、苛烈な殺意も、まるで感じない。
 現世うつしよで初めて見た、あの甘く綻んだ顔そのもの。そんな彼の表情を見て〝嗤っている〟だなどと、誰が言えようか。
 ――これは夢の中の〝彼〟じゃない!
 彼は小さく頷き、音にならない言葉を紡ぐ。
「――――――――」
 夢から覚める。淡く光さす見慣れた冷たい天井。傍らには窶れきったサリエリが眠っている。
 余りにも初歩的すぎる過ちに、アマデウスは漸く気が付いた。

   ◆

「ねえサリエリ、今日は君のために曲を持ってきたんだ。聴いてくれるよね」
 夜、少年のような瞳を大きく煌めかせて、男は地下にやってきた。その手には分厚く束にされた楽譜があり、今からそれを披露するらしい。せっかく作曲ができるのなら、心の麻痺した自分なんかより、もっといい聴衆に聴かせてやればいいものを。サリエリは胸中でぼやきながらも決して口には出さず、ちらりと横目にその姿を捉えては、しかしすぐ床へ落とす。男はそんなサリエリの姿に気にすることなくピアノへ向かい、細く整った指を鍵盤の上に並べた。
 男の奇行は今に始まったことではなかった。自身の後頭部を赤いリボンで飾り立てられたあの日以降、こうして楽譜を持ち込み、永らく放置されていたピアノを奏で続けている。
 まるで自分に聴かせでもするかのように、心ゆくまで演奏しては感想を求める子どものような瞳で見詰めてくるのだ。
 今更なにを、と思った。これまで散々、都合のいい性欲処理の道具としてでしか扱ってこなかったくせに、なぜ親の機嫌を伺う子どものような被害者面をしているのだろう。かつての穏やかで満たされていた生活を壊したのはどちらだ。これではもう、ピアノは愚か、歌ですら碌にできなくなってしまうではないか。ぐるぐると湧き騒ぎだす怒気に膝の間で組んだ指に力が籠る。
 徐に吸気の音が鋭く響き、サリエリは落ちた頭を僅かに持ち上げる。
 男の上体が揺れるのが見えた。
「…………」
 それは、余りにも耳に馴染む旋律だった。キーを変え、多少のアレンジも加えられていたがこのメロディーラインを聴き違える筈がない。自分でもオーソドックスなバラードだと思っていたが、一番喜んでもらった曲。何よりもサリエリ自身の思い入れが強い曲でもあった。
 それは恋を諦めた友の詩だった。
 変な小細工などせず、その友に向けた恋慕をただ独白のように書き綴っただけ。
 今でもその友とは本当に友だったのかと自問することがある。そんな曲。
 ――ああ、なぜ……。
 堅く封をしていた筈の記憶がこじ開けられる感覚がする。
 気が付けば男の姿から目が離せなくなっていた。
 歌い慣れてなさが端々から感じられたが、精一杯紡ぎ、なによりもすぐ傍にいるサリエリに伝えようとしているのが判ってしまう。
 痛い。
 いたい。
 ずっと無視し続けていた胸の温かな染みを突きつけられて痛い。
 視界がぼやけてゆく。
 ――どうして?
 問いは震え、情けない色を含んでいた。

〝忘れた頃に もう一度会えたら
 仲良くしてね〟

 心臓が、鷲掴みにされているような感覚に襲われ、痛みに思わず胸を押さえた。
 ――どうして?
 視界の翳みが酷くなる。頬を撫でる冷気が刺すものへと変わり、そこからも痛みが生じた。
 このフレーズの後に来る激しさも、抑え難い激情も、なにもかも覚えがあり過ぎて痛い。
 全て諦めたのに、この男によって呼び起こされてしまう。扉に掛けた鎖が引きちぎられる感覚に、また痛みが増した。
 もうどこが痛いのか判らない。
 ただただ痛い。痛くて堪らない。
 ――どうして?
 何故ならその〝友〟とは、いま目の前でピアノに向かっている〝彼〟なのだから。
 曲が終わる。暫く余韻を楽しんだ後、男は花が綻んだような表情を浮かべ振り向いた。
「どうして、って言いたげな顔だね」
 喉が張り付いているような気がして、声は出なかった。男はそんなサリエリの態度にさして気にする素振りは見せず、話を続ける。
「君の家へ行く前に何度か歌を聴いたんだ。ホラ、君がよく顔を出してたあのバーだよ」
 男の声に熱が籠められてゆくのが判った。バーで披露した歌に衝撃を受けたこと、中でも最初に聴いたというこの曲が忘れられないということ。
 まるで熱烈なファンがアーティストに向けるラブコールのような語調と熱量で、男は滔々と語り続ける。しかし――
「でも――」
 不意に凪ぐ。
「本当は、この歌を聴く前に君を見てるんだ。変だろうとは思うけど本当のことで……その、夢の中でさ、君と僕は友人関係なのになぜか殺しあってたんだ」
 服装は違ったけど、声も姿も同じだったんだぜ。笑えるだろ。
 そう男は力なく笑う。
「いつの時代の僕らなのかは正直よくわからない。だってどれも覚えのある風景なのに全部知らない場所だったから。……それにしては余りにも具体的な内容だったし、もしかすると前世みたいな……そういう迷惑なものを見せられてるのかと思ったんだけど、たぶん違うんだろうね」
 再び、熱の籠った眼差しでサリエリを射抜いた。
「君と僕が出会うのは必然だったんだよ。だって〝アマデウス〟と〝サリエリ〟だろう? どんなに僕のことが憎くても君なら……君ならば僕の曲を正しく聴いてくれると思ったんだ……だから――」
「だから、私を拉致監禁し組み敷いたと?」
 男がハッとした顔でごめん、と呟く。
 痛みが増した。もう我慢できない。
「きっと此処に連れて来られる前の私なら、貴様の演奏に耳を傾け何かを思うだけの情緒が湧いたことだろう。……だがもう、今更どんな弁解をされたところで、もう遅い」
 一度口を開いたら、痛みは言葉となって流れ落ちた。空気に晒され、更なる苦痛を手繰り寄せながら、サリエリは静かな悲鳴を男に向ける。
「なのにどうして……どうして貴様はその曲を私に聴かせたのだ……。よりによってなぜ貴様が……っ」
 視界がまたぼやけ始める。追って頬を伝うそれが何なのか、嫌でも思い知らされた。鼻の奥がツンとして目が空けていられなくなる。
 痛い。痛くて堪らない。
「私も似たような夢を何度か見たことがある。この曲はその際に出会った〝アマデウス〟と言う男に宛てて書いたものだ」
「え……」
「女々しい曲だろう。あの男は何度も〝友人はいない〟などと言っていたが、私はそれでも奴の友であろうとしたのだ。抗い難い復讐心に身を焼かれながら……何度も奴を殺めようとしながら……」
 目を閉じ、項垂れる。
「なぜ貴様は〝アマデウス〟と同じ姿なのだ……なぜ私の前に現れた……。なぜ、その曲を貴様は弾いたのだ……」
 ぽたり、と音が部屋に響いた。

   ◆

 漸く名前を呼んでくれたのに、アマデウスは喜ぶことができなかった。サリエリが口にした〝アマデウス〟は自分ではなく、自分と同じ姿をした別人だったからだ。
 サリエリの膝が緩やかに崩れていくのを、アマデウスはただ眺めるしかできなかった。顔を覆い、小刻みに肩を震わせながら彼は何度も「なぜ」と問う。やっと自分を見て、考えて、呼んでくれたのに、彼の心は傷付いたまま。アマデウスの行動が理解できず、痛みに悲鳴を上げている。
 ああ、君の言う通り、何もかも遅すぎたんだな。
 伸びた銀糸が彼の顔を覆い隠している。それが何だか己を拒絶しているように感じた。
 一度地下を出て、サリエリの衣類を手にもう一度戻る。彼はそれに気付いていない様子で、未だ顔を覆い膝を付いたままだった。ゆっくり、なるべく音を立てないように近付き、彼の足首に手を伸ばす。
 ――カチャ。
「……ッ!?」
 彼の頭が跳ね、泣き腫らして真っ赤になった顔が露わになる。数ヶ月越しに晒された片足首はいっとう白く、折れそうな程に頼りなくなっていた。手を伸ばし、柔く撫でる。すると、それはびくりと震えながら僅かに逃げてしまった。
「ごめんね……」
 目を細めて、何度も言葉にした懺悔を口にする。きっと伝わらないだろうが、それでもアマデウスは謝らずにはいられなかった。大変なことをしでかしてしまったと、そう思ったから。取りに戻った衣服をサリエリに差し出し、着替えるよう促す。
 そして伝えた。「これで君は自由だ」と。
「ふ……っ……」
 彼の瞳を再び涙の膜が覆い、きらきらと星が散る。透明な滴を生成し、それはどろりと溢れ出した。
 言葉は無かったが、サリエリが自身の衣服に手を伸ばしたのを見て、アマデウスは彼の返事を聞いた。

   ◆

 永らく監禁生活を強いられていたことで、どうやら体型が変わったらしい。見慣れた私服に袖を通すと所々布が余る感覚がして、サリエリは思わず自嘲した。
 寝泊まりした地下室を改めて見渡す。セミダブルのベッドにスタンウェイピアノが置いてあるだけの簡素な部屋。よくこんな場所で永いこと生活していたなと思った。世話をされていたとは言え、ここまで生活感のない空間だと気が触れてしまうだろうに。それとも、自覚がないだけで自分はもう既に狂っているのか。実感のないサリエリには何も判らない。
 扉へ向き直る。すると、それまでベッドに腰かけ着替え終わるのを待っていた男がサリエリの名を呼んだ。
「最後に……ひとつだけ僕のお願いを聞いてくれるかい?」
「何を今更。私を此処へ連れてきた時点で、貴様は私に〝お願い〟などする立場ではないだろう」
 男は一瞬押し黙り、そして恐る恐るといった声音で「もし憶えていたら、あの夢で僕がしたリクエストを弾いてほしい」と言った。同じ内容の夢を共有していたならば忘れる筈のないあの曲。星に変わった恋の歌。余りにも場違いなリクエストに呆れ、無視してやろうかと思ったが、男の眼差しは冗談などではなかった。ずっと言いたかったのだろう。漸く口にできた解放感に、サリエリがどんな返答をしても覚悟ができているという風な顔だった。
 仕方なく、部屋の奥にあるピアノへ腰掛けた。
 その曲は誰もが知っている童謡にも似た曲だった。もはや教科書にすら載らないほどの、口伝だけで誰もが奏でることのできる曲。
 しかしその誰もが知っているという星の歌が、実は〝恋の歌〟であったのだと知っている者は、果たしてどれだけいるのだろう。
 夢の中で何度も対峙した〝アマデウス〟と同じ名を持つ偉大な音楽家が作ったという、どこまでも無垢な曲。
 サリエリはそんな曲をほんのワンコーラスだけ、時間にして一分にも満たないほどの短さで演奏する。
 男はそんな演奏でも満足したようだった。暗く沈んだ表情に少しだけ光が差す。
「ありがとう」
 彼は確かにそう言った。サリエリ踵を返し、部屋を後にしようとする。赤い何かが視界をちらついたような気がした。
「……ッそうだ!」
 すぐにまた呼び止められる。今度は振り返らずただ立ち止まっただけにした。
「君の名前……ずっと聞いていなかった。僕の名前は〝アマデウス〟君の名前は?」

「初めまして〝アマデウス〟私は〝サリエリ〟だ」

 ああ。これでやっと、ある筈のない友の影を追いかけなくてよくなる。
 数か月の紆余曲折の末、漸くスタートラインに立てたような気がした。
 彼もそれに気付いたらしい。ハッと息を呑む音が聞こえたかと思えば、かつてないほど穏やかな声色で言葉が贈られた。

「初めまして〝サリエリ〟そして……さようなら」