空の記憶に溺れる ※R18 - 2/3

 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、ある男を探していた。
 夢を見ると現れる彼。自分を神と称え、しかし何故か殺しにやってくる彼。
 彼について判っていることは、自分と同じく音楽を愛しているということ、名前がアントニオ・サリエリだということ、この二つだった。
 夢の中の彼はとても苦しそうで、音楽を愛している筈だというのに、それに携わっている姿を殆ど見たことがなかった。時々小さな子どもにピアノを披露していたかと思えば、自分の姿を見るなり剣を突き付け襲いかかってくる。そうして自分は殺されるのかと思いきや、何故か彼はトドメを刺さない。呪詛めいた自己暗示を必死に掛けて何度も意を決し、それでも不発に終わるのだ。
 殺したいのに殺せない。または〝殺したくないのに殺さなくてはならない〟
 まるでそう言いたげな表情で、苦しそうで。
 ――どうして?
 問いは言葉にならなかった。

   ◆

 彼と会う舞台は、眠る度その姿を変えた。
 ある時は真っ白で無機質な窓のない施設の中。またある時は広大で煌びやかなコンサートホールの中。そしてまたある時は鬼の面をしたカボチャの遊園地。場所、時系列などは曖昧で、どの場面で出会っても全くピンとこなかった。
 いつもいつも、顔を合わせては刃物を振りかざし、殺すと叫んで襲い掛かってくる。残念ながらこればっかりはどんなに場面を変えても変わりようがなかった。
 そんなに自分のことが憎いのに、どうしてトドメを刺さないのか。何度も問おうとした。けれどまるで過去の追体験をさせられているかのようなこの夢の中でそれは叶わなかった。アマデウスの意思はここにあるのに、身体の主導権、言葉の主導権はなかったのだ。
 目の前でリアルなドラマを見ているような気分。けれど彼が放つ熾烈な想いは、間違いなくアマデウスに向けられている。こんなにも熱烈に自分を見てくれる人なんていなかった。
 アマデウスは、いつしかこの夢の中の住人であるアントニオ・サリエリのことが気になり始めていた。
 そしてまた訪れた彼との夢。その日は真っ暗なホールのような場所だった。
 ひび割れた手を叱咤して頻りに鍵盤を走らせ続けている自分。まるでこの演奏を止めてしまったら何もかも終わってしまうとでも言いたげな気迫で、必死に噛り付いている。そこへ、神父のような恰好の男に連れられて彼は現れた。
 彼は怒っていた。獣が放つ咆哮のように叫んでいる。しかしその矛先は自分ではなかった。
「アマデウス……!? おまえたち、この神才に何をした!」
 確か、そう言っていていた気がする。
 それ以降のことは、正直あまり覚えていない。
 ただ、意識が朦朧として夢から覚めようかというとき、アマデウスは彼にある曲をリクエストしたことだけは鮮明に残っていた。
 駆け寄ってきた彼。自分を抱き起す時に見えたしゃくしゃの顔。
 哀しみ、悼み、憎しみ。
 愛おしみ。
 綯交ぜになっていたが、それらの感情が彼の顔から滲み出ていた。
 これまで見てきた激しさは何処にも見当たらない。
 ――どうして?
 問いはやはり声にならなかった。

   ◆

 とあるバーに立ち寄った。
 理由は特にない。あえて言うなら、そこに酒が飲める店があったからだ。
 そこはステージ付きのカフェバーだった。ピアノが設置されており、中央にはスタンドマイクが立っている。木目張りの落ち着いた内観。しかし並んでいる机と椅子は、同じ色味に統一されているもののかなりシンプルなデザインで装飾性に乏しい。天井にはライブハウスにあるようなカラー照明が左右対称で並んでいて、なんだかちぐはぐな印象を受けた。
 お洒落とは言い難い、こぢんまりとした店内。
 けれど中で過ごす客たちの穏やかな表情を見ていると、悪くない雰囲気だと思った。カウンターに腰かけ、マスターと思われる男に一番強いアルコールを注文する。
「見ない顔だね。ここは初めてかい?」
「うん。結構繁盛してるみたいだね。いつもこんな感じなの?」
「まさか! 普段はもっと静かだよ」
 控え目かつ豪快にマスターが笑う。理由を尋ねると、今日ここで、ある歌手がステージに立つらしい。
「ここいらじゃあ結構有名なんだ。よく歌いに来てくれるからね。みんな彼の歌声にメロメロさ」
 小さな子どもに音楽を教えながら、それなりな頻度でここに立つと言う彼。その歌声は甘く、透き通って美しいのだそうだ。
 凡そ男の歌声を評価するには的外れな表現。マスターが得意げに紹介する〝彼〟のことが、アマデウスは少しだけ気になった。
 程なくして照明が絞られ、談笑に興じていた客たちは一斉に静まる。パラパラと控えめに拍手する彼らが向ける視線に倣うと、マイクスタンドに向かって歩く背の高い男の姿があった。
「……え…………」
 すらりとした横姿。照明に反射して煌めく白銀の髪はハーフアップにされている。身体のラインに合わせて仕立てられたストライプのチェスターコートとスラックスは、黒地のせいで堅苦しさを覚える。しかし袖口と首元から覗くワインレッドのタートルネックのお陰で幾許かカジュアルさを演出していた。
 男が正面を向き、深々と一礼する。控えめだった拍手が大きくなったのを聞き、強張っていた表情をほっ、と綻ばせていた。
 アマデウスは目を見張る。煮詰めたジャムのように目尻を下げて聴衆を見渡す男の瞳が、夢で見たのと同じ真紅だったからだ。
「……さ、りえり……?」
 零れた名前は、誰の耳にも届かなかった。
 ステージの彼がくるりと向きを変える。今度はピアノに腰掛け、遠目でも判るほど大きくて繊細な指が鍵盤に添えられた。目を閉じ、大きく息を吸い込む。ぐらりと上体が揺れた。
 絶妙な力加減で流れる穏やかな伴奏。
 柔らかく解けてゆく唇。
 紡がれる歌声。
 それは恋の歌か、はたまた友の歌か。アマデウスには判断がつかない。
 曲自体はごく普通のバラードだった。演奏技術も、はっきり言って自分よりは下手だ。だが問題はそこではない。
 天使の歌声というものがこの世に存在するのであれば、それは間違いなく彼のことを指すだろう。普通の男声ではまず聴けないメゾソプラノの音域。それを彼は事もなげに、寧ろ並みの女性歌手すら凌駕するほどに美しく歌い上げているのだ。伸びやかに、そして繊細に。
 まるで自分に向けられているような気がした。
 または彼の独白を聞いているような気がした。
 ありふれたメロディを奏でながら、どうしようもなく切ない声で細く、太く、語り掛けるように歌う。
 大団円に向けて、彼の声は一層の繊細さを増した。同じく抑えられた伴奏。これも、普段耳にするポップスではさして珍しくもない流れ。
 しかしアマデウスの呼吸は、それに引っ張られるかのように詰まる。知らず胸元を押さえ、服に深い皺を刻んでいた。

〝忘れた頃に もう一度会えたら
 仲良くしてね〟

 心臓が、鷲掴みにされているような感覚に襲われ、ビクリと身体が跳ねた。
 彼の上体がまた揺れる。少しだけ前のめりになり、これまでの穏やかさとは打って変わり、強く、激しいものになってゆく。
 同時に芯の強さを持ち始めた歌声。繊細さは相変わらずだが、水面に拳を叩きつけるような激情が込められている。同じサビなのに全く別の表情を見せる歌詞。
 やはり自分に向けられているような気がした。
 そして彼の怒りを聞いているような気がした。
 荒れ狂う感情を、マイクと鍵盤に向かって目一杯叩きつけると、曲は徐々に静けさを取り戻してゆく。彼は全てを受け入れ、何もかも諦めたのだと、アマデウスは何故かそう思った。
 曲が終わる。暫し余韻の後、入場の時とは比べ物にならないほどの拍手が店内を埋め尽くした。
 彼の身体が弛緩する。再び聴衆に目を向けると、どうやら満足のいく表情だったらしく、白い顔を甘く綻ばせていた。
「ありがとう……。残りの曲も楽しんでいってもらえると嬉しい」
 それは夢で聞いたものと同じ声だった。

 あの日からアマデウスは、彼が歌うバーへ通うようになった。流れで馴染みになってしまったマスターに、あの奇異なカウンターテナー歌手について教えてもらう。
 彼の名はアントニオ・サリエリ。自宅に教室を構え、小さな子ども達に音楽を教えながらここのバーで不定期に歌を披露しているらしい。月に数回の頻度だが、カバー曲や自作の歌、ジャズやクラシックなど、ジャンルは多岐に渡るため飽きがこない。どの曲も、人の心に寄り添い、支え、時には激しく怒り、けれど決して押しつけがましくなく、傍にいてくれる。父性と母性を兼ね備えたかのような、はたまた近しい隣人のような、そんな温かな演奏が特徴的だった。
「アントニオの音楽はこう……温かいってか、優しいってか……そんな感じがするんだよなぁ」
 ある客がそんなことを言っていたが、正しくその通りだと思う。
 万人に等しく向けられる愛。
 彼はそれを持っていた。
 けれど通う度、アマデウスは少しずつ心に泥が溜まっていくような違和感を覚える。
 バーに訪れた者全ての耳に届けられる、伸びやかで透き通った歌声。
 熱心に聴き入る聴衆に向けられる、甘く蕩けた視線。
 馴染みの常連客たちに零される、穏やかにはにかんだ笑顔。
 どれもアマデウスの記憶ゆめには無かったもの。
 彼の声は自分の名を叫び続けている筈だった。咆哮にも等しく、しかし慟哭にも似た悲痛さでもって、それは明確な殺意をアマデウスに向ける。
 彼の視線は自分を刺し貫いている筈だった。大粒のルビーが如き煌めきに激しい炎を宿らせて、それは真っ直ぐアマデウスを見詰める筈なのだ。
 彼の表情はもっと苛烈で熱烈な感情を孕んでいる筈だった。ひとりの人間では到底抱え込めない重さの憎悪を滾らせて、それはアマデウスを殺す原動力となる。
 彼はそういう存在である筈なのだ。
 それが今、これまでアマデウスが見てきたものとは真逆とも言える性質を携えて彼は存在している。
〝熾烈で熱烈で愚かな復讐者〟
 それが彼に向けられた存在意義であった筈。
 そしてそれらの〝想い〟は、全部アマデウスひとりに向けられるものの筈。
 ――どうして?
 問いは胸の中で空しくこだました。

 通う度、知らない表情を見せてくるサリエリ。とは言えアマデウスは、意図的に彼との接触を断っていたため〝見つけてしまう〟と表現した方がまだ正しいだろう。
 胸の中でアマデウスは叫ぶ。その表情を自分だけに見せて欲しい、と。年月を重ね、川底に堆積してゆくヘドロのように、独占欲にも似た黒い感情は存在を主張し始める。
 自分だけを考えて、自分だけを見て、自分だけを呼んで欲しい。

〝サリエリは僕のものだ!〟

 アマデウスの我慢はもう限界だった。
 ――どうして?
 発した問いは低く、地を這うものだった。

   ◆

 奇跡のようなあの出会いからの数ヶ月間を振り返りながら、最終的に閉じ込めてしまった彼の、うねりの少ない銀糸に触れる。彼の髪は一度も鋏を入れておらず、あの日からずっと伸びっ放しだ。肩につかない程度の長さだったのが、今では背を覆わんとしている。カーテンの隙間から除く月明かりに反射して鈍く光る彼の髪を眺め、まるで上等なプラチナのようだと思った。
 サリエリの家まで会いに行ったら、アマデウスは胸に燻り続けていた欲求を抑えることができなかった。
 このまま会うだけで終わってしまえば、彼は自分を置いて行ってしまう。
 自分だけを見て欲しい。
 自分だけを考えて欲しい。
 自分だけを呼んで欲しい。
 ただそれだけだったのに。
 そのために地下室を片付けて、リフォームし、ベッドとピアノを用意したのに、彼は喜んでくれなかった。
 それどころか、彼は何度もこの部屋から出たがった。目覚め、最初に彼が口にしたのはアマデウスの名ではなく、教え子の安否やバーのマスターとその常連客についてだったのだ。
 可能な限りの自由は与えた。食事も彼のために用意した。孤独で狂わないよう夜は傍にいた。
 それでも彼はアマデウスの手を拒絶し続けたのだ。
 どうして思い通りにいかないのか。
 アマデウスは遂にサリエリに対し手を上げ始めた。
 磁器のような白い肌に青黒い斑点が散る。それでも強い眼差しで尚も拒絶する彼に、どうしてか興奮を覚えた。
 彼を犯した。
 最初は痛みに悲鳴を上げ碌な性交にならなかったが、道具を用いて開発していけば呆気なく陥落した。高く、艶めかしく、歌うように上がる控えめな嬌声。
 どうしようもなく気持ちがよかった。そして漸くサリエリを思い通りにできたと思った。自分の手によって乱れ、啼き、焦らせば涙を零しながら解放を求めて淫らに腰を揺らめかせるのが堪らない。
 サリエリが自分を求めてくれている。
 それが堪らなく嬉しかった。
 いつしかアマデウスの一日の中に、サリエリとのセックスが加わるようになった。
 けれどサリエリがアマデウスを見るのはその時だけ。
 他の時間は相変わらず見てくれない。
 それどころか、彼の瞳は日を追う毎、虚ろに濁り始めていた。
 名前を呼んでも、返事をしないどころか反応が緩慢になってゆく。
 逃げる意志はとうに失われているみたいだが、同時に生きることそのものに疲れてしまったように見える。
 セックスすると彼は時々、呼吸の仕方を忘れる。そのタイミングは決まって彼が絶頂するとき。声を上げないよう必死に息を詰めていると、極まった際、何かに堰き止められたかのようにピタリと呼吸を止めてしまうのだ。
 そして絶頂と共に意識を手放す。
 彼の声がもっと聞きたかったのに。
 ――どうして
 問いは図らずも口をついて出た。

   ◆

 夕食の買い物に出かけると、その日は馴染みの女将に呼び止められた。
「最近、好きな子でもできたのかい?」
 ニヤニヤと意地の悪い笑みだったが不思議と嫌な気はしなかった。少しだけ考える素振りを見せてから、どうだろうと返す。
「なんだい、自覚なしかい。あたしはてっきりその子にゾッコンなのかと思ったよ」
「へえ、面白いこと言うんだね。なんで?」
 女将は得意げに鼻を鳴らす。
「その手さ。いつも綺麗なのにこの頃少し荒れてる。あんた、慣れない家事に手を出してんだろう? 普段めったにやらない面倒なことに手を出した理由なんて、大体は恋とか、そういうもんさ」
 恋。アマデウスは首を傾げる。
 確かに料理なんて、彼の世話をするようになって初めてやった。仮にそれが彼女の言葉通りの動機だったとして、今アマデウスを突き動かしているものは本当に〝恋〟なのだろうか。
 自分だけを見て欲しいのは恋なのか。
 自分だけを考えて欲しいのは恋なのか。
 自分だけを呼んで欲しいのは恋なのか。
 どれも違うような気がしたし、どれも合っているような気がした。けれどどの欲求も〝恋〟とやらに当て嵌めようとしても、微妙にピースが噛み合わない。
 多分、違うのだろう。
 それとも、何かが足りないのか。
 きおくの追体験がしたいばかりだったアマデウスには、そんな根本的な感情に目を向ける余裕がなかった。
「……? これは……」
 気付いたら目の前には赤いリボンを持った女将の手があった。
「髪留めに使いな。そんな長い髪じゃ、家事するのに邪魔だろう?」
 笑いながらも有無を言わさぬ様子の女将に流されるまま手を差し出すと、あとこれもサービスねと言いながら果物も幾つか貰った。頑張ってその恋を実らせな、と、ある種一方的とも言える支援の台詞と共に。
 家路をとぼとぼと行きながら手元のリボンを眺める。何処にでもある赤いリボン。ほんの少しだけ草臥れ、くすんだ色味を持つそれは、どうしてか地下で眠っているだろう彼の姿を想起させた。

 彼の髪は一度も鋏を入れていないため、伸びっ放しだ。もちろん日頃のトリートメントで艶は保たれているが、少しだけ鬱陶しそうだとは思っていた。
 けれど何故か切ろうという気は起きなかった。月光を溜め込んで自ら発光しているかのような彼の銀糸は、その面積が大きくなればなるほど美しさを増してゆく。気を失い、白いシーツに溶け込むようにして散らばり鈍く光る髪を眺めるのが、アマデウスは好きだった。
 ふと、彼の後頭部にそのリボンが飾られているのを思い浮かべた。サイドに流れた白金の糸を後ろに纏め、緩いハーフアップにされた彼の髪型。たいした大きさでもないだろうに、彼を構成する色素が極めて乏しいせいかそのリボンは確かな存在感でもって妖しく浮かんでいる。そんな後姿をふと、思い浮かべた。
 似合うだろうなと思った。少しずつ生気を失っていっている彼が纏う赤は、きっととても強くて圧倒されるだろう。残りの魂を持っていきそうな程に、そのリボンはとても鮮やかに映えるだろう。
 見慣れた我が家の扉に辿り着く。
 見てみたいと思った。

   ◆

 いつものように食事を用意し、地下室の扉をノックする。相変わらず返事はなかったが、アマデウスはどうでもよかった。ポケットに忍ばせたリボンを布越しに触れ、気分が高揚してゆくのを感じる。
 彼はまた少し、死に近付いていた。最初に会ったときよりも更に白くなっている。纏うシャツも白いせいで、彼が色を持つ部分はもう瞳しかなかった。ああしかし、彼に手を上げた痣が剥き出しの太腿からちらりと覗いている。それもまた、この後で飾るリボンの良いアクセントになるだろう。アマデウスの気分は更に高まった。
「サリエリ、ご飯の時間だよ」
 浮ついた自分の声が可笑しくて笑いが混じる。彼も自分がこれまでと違う態度で声を掛けているのに気が付いたのか、一瞬だけ動きが止まる。しかし次にはこれまで通りの動きでベッドの縁に腰掛けていた。
 相変わらずサリエリと目が合わない。アマデウスの表情は次第に曇ってゆく。
 ――どうして?
 問いは言葉になる前に霧散した。
 気が付けば彼を床へ引き倒していた。暴れる身体を押さえ付け、シャツの合わせ目を引きちぎる。抵抗を封じる程度のお粗末な愛撫を施して、アマデウスは潤滑剤の纏っていない乾いた指を彼の体内に突き入れた。
 散々開発されたサリエリの身体は、そんな乱暴な前戯でも快感を拾っていた。鼻から抜けるような力ない悲鳴。ルビー色の瞳を目一杯蕩かせて、首を振る。
 一番悦ぶ場所を重点的に触れてやると、一瞬だけ、彼の嬌声が笑いを含んだものに変わった。
 思わず動きを止めて訊ねた。彼の反応はない。それどころか何を言われているのか判らないとでも言いたげな顔で浅い呼吸を繰り返している。
「ねえ、なんで笑ってるの」
 だからもう一度聞いた。
「そう、教えてくれないんだ」
 それでも彼は答えなかった。
「…………ッ!? ……あぐ、っ……」
 指を引き抜いて、アマデウスは自分の怒張した性器を突き入れた。
 滑りを良くするものなど何もない。思っていた以上の抵抗感に、アマデウスは顔を顰めた。メリメリと音でも立ちそうな程に酷い痛みのせいで、サリエリは悲鳴すら上げられないらしい。仰け反る身体はガタガタと痙攣していた。
 異変を感じたのはその後だった。
「がッ……! ぐ……ッ……っ」
 サリエリの両手が、震えながら喉元に伸びる。まるで気道を塞ぐかのように、添えられた指先に力が入ってゆく。
 がり、という音がした。痛みに仰け反りながら喉仏の部分に何度も爪を立ている。白磁の肌に赤い筋が引かれ、滲む。
 アマデウスの脳裏にある場景がフラッシュバックした。何度も見た夢の中、一度だけ目にした光景。真っ赤なアスコットタイに隠れた彼の喉に走る一本の大きな裂傷。歌を生業とする音楽家であれば致命傷になりかねない程に大きな――
「――……ッサリエリ!」
 あの歌声が失われる予感がした。これ以上続けてはならないと慌てて名前を呼ぶが、彼の耳には届かない。
「サリエリ……サリエリ……」
 このままでは彼から音楽を奪ってしまう。彼の声が聞きたくて傍に置いていたのに、これでは本末転倒だ。取り返しのつかないことをしてしまったのだと、今更になってようやく、アマデウスは気が付いた。段々と声が震え、弱々しくて情けないものへと変わってゆく。
「……さりえり」
 いっとう小さな呼びかけになって、サリエリの動きは止まった。
 紅玉は、純粋な疑問を孕んでアマデウスを見ていた。何が起きたのか判らない。そう言いたげな目。しかしパニックによる自傷行為が収まっても、未だ彼の呼吸機能は狂ったまま、ひゅうひゅうと摩擦音を響かせている。
 アマデウスは喉元にやったままの彼の手に触れ、ゆっくりと引き剥がす。抵抗はされなかった。塞がれていた気道が開き、サリエリは咳き込む。空気が一気に肺へ送られて苦しいのだろう。激しい咳と荒い呼吸にもがきながら必死に整えようとしていた。
 自らとは言え傷付けてしまった彼の喉。余りにも酷く掻き過ぎたのか、細く赤い筋が幾重にも引かれ、捲れた皮膚からは同じ色の液体が伝い彼の指先を汚していた。
 真っ赤に染まった首。
 ああ……。
 取り返しのつかないことをしてしまった。
「サリエリ……ごめんね」
 手を伸ばす。身を捩ったままの彼の首に腕を回し抱き締める。
 それはごく自然に零れた。
「ごめんね……」
 何度も繰り返しアマデウスは口にする。
 その日以降、アマデウスのサリエリに対する態度は一変した。