「随分伸びたね」
そう言い、髪に触れてくる男の手に身を任せる。まるで割れ物を扱う様な感触に、サリエリはもどかし気に身を震わせた。
いつもみたいに、もっと乱暴にすればいいのに。
自身の肌に転々と浮かぶ青黒い痣を力なく眺めては、ぼんやりと思う。
カーテンの隙間から差し込む細い光が少しずつ強くなる。きっとまた夜が明けるのだ。
束の間の安息。
同時に、訪れる夜に向けてのカウントダウン。
何度繰り返したのか、サリエリは既に判らなくなっていた。
傍らには草臥れたリボンがひとつ、シーツの上に散っている。
◆
アントニオ・サリエリは歌手でありながら個人で教室を構える講師でもあった。
小さな田舎町の片隅で、将来音楽の道に進まんとする希望多き子ども達に向けてピアノと歌を専門に指導していたのだ。毎日のように生徒が出入りし、偶にの休日は馴染みのバーで歌声を披露し生計を立てている。白髪で赤目といった特異な容姿にも関わらず人当たりは良く柔和で、彼の周りには常に人が絶えることがなかった。レッスンの日は沢山の子ども達に近況を聞かせてもらい、バーの日では常連客との談笑に花を咲かせる。
裕福な生活ではなかったが、サリエリはこの穏やかとも言える平凡な毎日を愛していた。
その日は酷い嵐だった。
ガタガタと軋む窓。その向こうを覗き込むと、横殴りの雨が街に暗い影を落としていた。
すぐさまスケジュールを確認する。何人かレッスンの予定が入っていたが生徒の安全を鑑みて中止する旨を電話で伝えた。
外出ができないとなれば家でゆっくりするしかない。
なんだかんだ多忙にしていたサリエリは、不可抗力とはいえ久々に訪れた休日を持て余していた。気の向くままピアノを弾いても激しい雨音に邪魔されてしまって集中できない。ならば好物の甘味を思う存分堪能しようと棚のクッキーや冷蔵庫のスイーツに手を伸ばしたが、ものの数十分で食べきってしまった。飲料水の買い置きは殆ど無く、ミネラルウオーターが数本、冷蔵庫にストックされているだけ。
我ながら生活感に乏しいと、思わず笑ってしまった。
仕方なくそこから一本のミネラルウオーターを取り出し、読みかけのまま放置されていた本を読むことにした。
リビングのソファに腰かけ、ブックエンドに指をかける。
嵐はまだ収まる気配を見せない。
ふわふわと浮遊感にも似た微睡みから徐々に覚めてゆく。
壁に掛けられた時計を見遣ると、本を読み始めてから三時間以上が経過していた。時刻は夕方を示しており、普段その時間は夕食の準備に取り掛からなければならなかった。
慌てて飛び起きる。バタバタと台所へ駆け込み、野菜室の引出しを勢いよく開けた。そういえば昨日、買い出しに行くのを忘れていたなと、殆どカラな中身を見て思い出した。致し方ないが、今日はインスタントで済ませるしかない。
昨日の自分の用意の悪さに少しだけ気分が落ち込んでいると、インターホンが鳴っているのに気が付いた。外は未だ轟音が吹き荒れている。覚えがないが、宅配便でも来たのだろうかと、サリエリは首を傾げながら足早に玄関へ向かった。
「……はい」
存外不審げな声が出て、内心驚く。俯きがちだった視線をあげ、サリエリは息を呑んだ。
濡れ鼠の、男だった。
乾いていればきっと見事だったろう長い金髪はくすみ、けれど無邪気に煌めくペリドットのような瞳が美しく印象的な青年。背丈は自分と殆ど変わらないが多分年齢は下だろう。悪戯っぽく吊り上がった大きな瞳にスッと通った鼻筋、そして満面の喜びを刻む薄く艶めかしい口元。いわゆる美青年というやつだった。
目が合うと、男は更にキラキラとした笑みを浮かべ、無邪気かつ一方的に再会を祝してきた。
「探したぜ、サリエリ!」
◆
あの出会いから幾日が過ぎたのか、何故こんなところで自由を奪われた生活を強いられなければならないのか、サリエリはもう判らない。
ひとつ判っていることは、あの日、あの男と出会った瞬間、サリエリは逃げ出すなり追い出すなりして彼から離れなければならなかった。
刻一刻と迫る夜に、人知れず身を震わせる。
あるいはカッターシャツ一枚だけを羽織った恰好のせいで、無自覚にも寒さを感じているのか。
剥き出しの、青黒い斑点が散る白い脚をすり合わせ、サリエリはベッドの上で縮こまった。
目を閉じ、男が押しかけてきた日から今に至るまでを振り返る。もう何度も繰り返しては飽きてしまった行為だが、他に時間を過ごす方法をサリエリは持ち合わせていなかった。
子ども達は元気にしているだろうか。
バーのマスターは心配しているだろうか。
それでも、ここを逃げ出そうという気は微塵も湧いてこなかった。
◆
激しい暴雨の中、対面した男とは、勿論だが暫く揉めた。面識などない筈なのに、何故か彼はサリエリのことを知っていた。言い得ぬ気味の悪さを覚えたサリエリは、人違いだと言って何度も追い返そうとしたが上手くいかず、最終的に男が手を出し自分が昏倒してしまったことで片が付いてしまった。
押し込まれたのは防音の施された冷たい地下室。セミダブルのベッドに大きなスタンウェイピアノが置いてあるだけの簡素な部屋だった。天井近くの壁に沿う形で並ぶ細長い窓を短いカーテンがぶら下がり、覆っている。恐らくそれが開け放たれる日は来ないだろう。
部屋の中であれば自由に行き来ができた。言い換えれば、片足首に繋がれた鎖のせいでこの地下室から出ることができない。
トイレやシャワー室は何故かこの地下に用意されていた。よって、身を清めるには問題ない。
食事は流石に自分では用意できなかった。毎晩あの男が地下室を訪れる際に持ってくるその一回きりだけ。満腹感は得られないが、飢えることはなかった。
ただ外へ出られない、それだけ。
それでもサリエリが置かれた状況はやはり快適とは言い難かった。
片足を鎖で繋がれているために下肢は常に剥き出し。代わりに丈の長いカッターシャツを纏い、辛うじて局部だけが隠れている。みすぼらしいことこの上ない恰好だった。
毎晩出される食事に手を付けないでいると、男は否が応でも食べさせるため、匙を、食器を、近付けてくる。それでも拒否すれば暴力が飛んできた。頬を張り、腹を蹴り、倒れて動けなくなったところで髪を引っ張って顔を向かい合わせ、緩んだ口元にスープを流し込まれる。
食事が終わると、サリエリは男と褥を共にした。そう言うとまるで愛し合っているように聞こえるが、要するにレイプだ。暴れる身体を押さえ付けられ、時には拘束具を用いられ、抵抗を封じられた所を男の手が伸びる。初めは性器で直接性感を起き上がらせながら乳首を弄られ、そこでも感じれるようにと仕込まれた。
次に仕込まれたのは尻だった。ローションをたっぷりと纏わせた指や玩具で、連日連夜に渡り拡張させられる。最終的には男の性器がサリエリの身体を穿いた。どんなに潤滑剤で中を潤しても、性交するための器官ではない肛門は痛みに軋む。その度にサリエリは呼吸の仕方を忘れ、酸欠で意識を飛ばすのだ。けれど次第に身体は慣れ、サリエリは徐々にそこから快感を拾い上げるようになってゆく。
そんな日が毎日続き、ひと月もすればサリエリの心と身体は呆気なく陥落してしまった。抵抗する気力も逃走を図る体力も失せ、身体を重ねれば女のように反応する。
自分は、あの彗星の如く現れた男によってこれまでの自分を否定され、愛玩人形のようにに作り変えられてゆくのだろう。
少しずつ首をもたげる絶望的な末路。けれどその理由と真意は判らないままだった。
――どうして?
問いは何度も脳裏を過り、そして霧散する。
◆
薄ぼんやりと差し込んでいた明かりが消え、徐々に冷たい闇が部屋を包み始める。
今日もまた、ベッドに縮こまったまま一日を過ごしてしまった。コンコンと鳴る軽快なノック音を聞き、緩慢な動作で上体を持ち上げる。返事など待つ訳もなく、男は入ってきた。
「サリエリ、ご飯の時間だよ」
いつにも増して上機嫌な声だ。今どんな表情で自分を見ているのか気になったが、これ以上正気を保てる自信がなかったのでやめた。もぞもぞと、俯いたままベッドに腰かけ、監禁者の次の行動を待つ。
暫しの沈黙の後、不意に鎖を引かれ、ベッドから引きずり降ろされた。驚いて仰向けに身体を捻るとを男が覆い被さってきた。シャツに手を掛け合わせ目を引き裂かれる。ボタンが弾ける音がした。
「な、にを……ッ!?」
露わになる貧相な胸元。そこに男の掌が這い、ビクリと強張った。
「なっ、んんっ……ぅ、ぁ……」
性感を呼び起こすように、厭らしく、執拗に撫でまわる。
何日も同じことを繰り返され、とうに慣れ切ったサリエリの身体は、歓喜に震えた。男が齎す愛撫に反応し、性的快感に喘ぐ。
そして散々焚きつけられた身体はその先を求め、女のように腰を振ってせがんだ。
男はすぐに応えてくれた。脚を広げられ、ひくつく孔に二本の細い指が宛がわれ、ずぶずぶと飲み込んでゆく。
「あ、あっ……はぅ、あぁァ……」
まるで媚びた女のような声だと思った。
男は埋め込んだ指を広げたり曲げたりしながら前立腺の位置を探る。その動きに合わせて、サリエリは細く、高く啼き、しかし心は追い付かず、首を振って拒絶の意を示す。
そして、ここでいつも視界がぼやけるのだ。涙の膜が男の姿を見失い、前後が判らなくなる。
「はぁ、ぁ……ン、んぅ……」
はしたない声が部屋にこだまする。啼く度に震える身体。逃げる体力は残っていないのに、性感に悦ぶ体力はあるのか。自分のことながら余りの浅ましさに嗤いがこみ上げてくる。
「ねえ、なんで笑ってるの」
男の手が止まる。
殆ど無言だった彼が徐に言葉を口にした。
返事のないサリエリを訝しんでか、男は再び同じ質問を投げかける。
「……ぁ……」
サリエリは答えない。確かに嗤いそうにはなったが外に出た自覚がなかったからだ。
なにより、余りにも些細な理由過ぎてどう答えたらいいのか判らない。
「そう、教えてくれないんだ」
「っあ……」
男の声が低くなる。
体内の指が勢いよく引き抜かれ、サリエリの身体は僅かに跳ねた。しかしすぐに男の怒張が宛がわれ、碌に濡らされていない肛門に押し入ってくる。
「…………ッ!? ……あぐ、っ……」
ビクリと背がしなる。下肢を、引き摺ったような痛みが襲い、サリエリの視界は一瞬ホワイトアウトした。
肉を巻き込むほどに強い摩擦。最初に犯された頃のような苦痛を思い出し、空気で喉を詰まらせる。悲鳴など、出る筈がなかった。
「がッ……! ぐ……ッ……っ」
呼吸の仕方を忘れた身体は、どれだけ口を開いても酸素を取り込めない。はくはくと開閉を繰り返したが上手くいかず、知らず喉に手をやっていた。
「っ、…………っ……!」
苦しい。
くるしいくるしいくるしい。
急速に酸欠になってゆく身体に覚える恐怖。無意識に両の爪を立て、力を入れる。
「――――ッッ!」
伸びっ放しの爪はいとも簡単に喉を傷付けた。ガリガリと音でも立ちそうなほどに赤い筋が縦に何本も引かれ、そこからじわりと熱を帯びる。
いつもは酸欠で意識が飛ぶのに、痛みでそれがいつまでも来ない。広げられた脚をばたつかせ、喉を掻き毟り、硬い床の上で必死にもがき続ける。下肢は未だ繋がれたまま。けれど男の腰が既に止まっていることに、サリエリは気付いていなかった。
「……サリエリ」
「…………っ!?」
静かに震えた声で名を呼ばれる。誰かなんて考えるまでもない。ハッと動きを止めたサリエリは、漸く男の顔を見た。
目が合う。細く形のいい眉はハの字に顰められ、大きな若葉色の瞳は涙を湛えながら細められていた。白い頬は薄桃色に染まり、唇は何かに耐えるかのように固く引き結ばれている。
知らない顔。
知らない表情。
知らない声。
それは今まで見たことのない男の姿。
胸の奥をピリリとした痛みが襲う。
――どうして?
問いは言葉にならなかった。
苦悶の表情は相変わらずのまま、男の手が近付いてきた。サリエリの手首を掴み、ゆっくりと引き剥がされてゆく。すると、急激に空気が通う感覚がした。
「ヒュ……――ッげほ、ごほっ! ――か、は」
身を捩り男から目を離す。必死になんとか呼吸を整えていると、男はサリエリの手首を離し抱き締めてきた。
「サリエリ……ごめんね」
今までにない行動。
今までにない声音。
知らない。判らない。
男の声が震えている。まるで親を探し彷徨う子どものような不安定さ。これまでとは明らかに違う行動に、サリエリの理解が追い付かない。
「ごめんね……ごめんね……」
鼻を啜りながら何度も零される懺悔の言葉。それは誰に向けたものなのだろう。判らない訳がない筈なのに、サリエリの脳内は疑問で埋め尽くされる。
――どうして?
問いはまたしても言葉にならなかった。
◆
「随分伸びたね」
そう言い、髪に触れてくる男の手に身を任せる。まるで割れ物を扱うような感触に、サリエリはもどかし気に身を震わせた。
いつもみたいに、もっと乱暴にすればいいのに。
自身の肌に転々と浮かぶ青黒い痣を力なく眺めては、ぼんやりと思う。
伸びっぱなしになっているサリエリの髪は、気が付けば肩を過ぎ、背を覆い始めていた。
「あのさ、今日、街へ買い物に出かけたらさ、リボンをくれたんだよ」
髪を梳く手を止めず、ぽつぽつと零される男の声。狂気染みた溌剌さはなりを潜め、揺蕩う湖面のような静けさでサリエリの鼓膜を撫でた。
「変だろ? だって僕は、ただ夕食の買い出しに来ただけなのに、そのお店の人、髪留めにって、くれたんだぜ」
返事はしなかった。もう、抵抗なんてどうでもよくて、ただどう反応すればいいのか判らなかったのだ。
「赤いリボンなんだ。君の瞳みたいに鮮やかな。似合うだろうと思って、持ってきたんだ」
ねえ、君の髪につけてもいい?
男は縋るような声で問う。何も判らない。
手が止まったことに気付き、サリエリは男が今どんな表情で自分を見ているのか気になった。ゆっくりと、半分だけ振り返る。
息を呑むような音を聞いた。視界に映ったのは、またしても知らない表情。傷ついたような、それとも罪悪感で居た堪れないような、そんな顔でサリエリを見つめている。
ふい、と目を逸らされてしまった。
――どうして?
問いは吐息に隠れて声にならなかった。
◆
男に髪を結われてから数日が経った。サリエリの髪は今、男が持ち込んだ赤いリボンで緩いハーフアップに纏められている。
あの日から男の態度が一変した。
これまでは狂人のような暴力でサリエリを屈服させてばかりだったのが、異常なほど甲斐甲斐しくなってしまったのだ。食事の際に振るう暴力はもちろん、強姦紛いな性交も全くなし。代わりにその日あった出来事を語り、ずっと置き去りにされていたスタンウェイピアノに触れるようになった。まるでサリエリに聴かせるかのように鍵盤を走らせ、出会った日を想起する程に煌めいた表情を向けるのだ。
男の演奏技術は素晴らしいものだった。かつてのサリエリであれば手放しで称賛し、持ち得る言葉の全てを使い彼を褒め称えただろう。
しかし散々苦痛と絶望の生活を強いられ心が麻痺している今、称賛どころか感動すらできないでいた。技術を吟味する思考すらない。
じんわりと、動かなくなった心に染みてくる温かくて鋭い感覚をただ漠然と味わうだけ。
――どうして?
問いは少しずつ音を紡ぎ始めていた。