モブがただ可哀相なだけの話。
隙間風に温度を奪われた頬が痛みを訴える頃に、私はうたた寝から覚めた。炬燵から身を起こすと外の雪は止んでおり、周囲は天井近くに掛けられた時計のカチコチという音を残して静まり返っている。時刻は夕方を示し、私は
「この雪道では、辿り着くまで大変だったでしょう」
私は男に中へ入るよう促しながら、荷物を受け取らんと手を差し出す。男は笠に乗った雪を振り落としてから敷居を跨いだ。ざんばら髪の下より顕わになった
男は笠だけを私に預けて「かたじけない」と目礼する。若いと感じたのはどうやら顔だけで、声も言葉も、やけに古めかしい。とにかく廊下に上がってもらい、つい先ほどストーブを点けたばかりの部屋へと案内した。
「別室へ布団の準備をしてきますから、それまでここでお待ちください」
「かたじけない」
「お食事は如何しますか?」
「いただこう」
「では、出来次第お持ちしますね」
襖を開けてやると、男は真っ直ぐ炬燵へ向かう。布団も捲らぬまま腰を下ろすと、少ない荷物を机上に広げ始めた。家主である私には目もくれず淡々と荷解きを進めていく。そんな男の様子をもう少しだけ眺めていたかったが、客が来てしまった以上は仕事に戻らなければならない。後ろ髪を引かれる思いを振り切るために、私は「ごゆっくりどうぞ」と言い残して退室した。
亡き祖父から受け継いだこの山小屋は、基本的に登山客の多い夏季限定の営業だ。私の住まいは麓にあり、本来ならここへは立夏頃にならなければ来ない。それでも偶さか気が向いて、冬場でも足を運びたくなることがあった。ただ無心に、しんしんと凍てつく山奥が齎す孤独と静寂を、肺一杯、耳一杯に浴びたいのだ。どうせ冬山をわざわざ登ってくるような物好きなどいないのだから。
そう考えたのが、どうやら裏目に出てしまったようだ。
飯を炊く竈門の火加減を見ながら、先ほど転がり込んできた客人を思い出す。あのまま営業時間外だと追い返してもよかったのに、なぜ当たり前のように受け入れてしまったのか。凍えそうな風体をしていたからと言うには些か理由が弱過ぎる。思考の深度を上げてより鮮明に男の姿を思い出すと、あの醒めるような三白目がぎろりと煌めいた。瞬間、私は心臓に刃を向けられたかのような恐怖に襲われ息を呑む。これだ。この得体の知れない眼光が、有無を言わさぬ強制力を孕んでいたからだ。致し方なきこととは言え、とんでもない客を上らせてしまったものだと肩が重くなった。
なけなしの食材でどうにか拵えた夕食を、客人の待つ部屋へ運ぶ。軽く断りを入れてから襖を開けると、三十分ほど前と変わらぬ場所で置物のように座していた。しゃんと背筋を伸ばして胡座をかき、顎を引いて瞼を閉ざしている。随分と姿勢良く寝るものだ。私は恐る恐る男の傍らに寄って、持ち込んだ食事を配膳していく。かつん、ことん。如何に注意を払えど、完全な消音は不可能。遂に男の片眉がぴくりと動いてしまい、慌てて頭を垂れる。
男は刃のような双眸を私向けて「お構いなく」と言った。
「ところで良き酒が手に入った故、ご主人も如何か」
そう言って男は私と逆向きに身を捩ると、たぷんと音を立てて一升瓶を取り出した。机の上で存在感を放つそれは、覚えのある名を貼り付けている。麓の醸造所で作られている上等な大吟醸。祖父が好んで飲んでいた酒であった。
これは何たる偶然か。たちまち男への警戒心が薄らいでしまった私は、勘案することなくその申し出を受けた。すぐさま台所に戻ってグラスとつまみを持ち込むと、向かい側の席に腰かけた。グラスを差し出せば、男はなみなみと酒を注いでいくれた。双方の手に酒が収まると、どちらからともなくぐい、と呷る。過去に飲ませてもらったものと同じ味が、ふんわりと口一杯に広がってゆく。やがて、初めて味わう酒はまず冷やで飲めと言う、祖父の口癖も蘇る。
「懐かしい味です」
「やはりご存じか」
「ええ、亡くなった祖父が好んでいたので」
舌の上で酒を転がしながら、独り言のようにそう零す。口にすれば思い出はより鮮明になり、持ち込んだビーフジャーキーと共に噛み締めた。安酒と一緒に流し込む予定だった干し肉は、たちまち上等な肴へと変貌を遂げた。
「でしたらほら、遠慮なさらず」
男の語調が僅かに弾んでいる。言葉の通り右手に持った瓶をずい、と勧めてきたのが目に映り、私は顔を上げた。眼前には険のある細面があるばかりだが、酒のせいか頬に赤みが差し、眦が蕩けているように見える。玄関先で相対したときよりは幾分か取っ付きやすそうな顔だ。彼に心を開いてもらったような気がして、私の頬が無意識に緩んでいく。では、お言葉に甘えて。いそいそとグラスを差し出して酌を受けると、不意に男が「そういえば」と切り出した。
「この辺で、奇妙な伝承があると耳にしたのだが」
「ああそれは、麓の集落に伝わる昔噺ですよ。日暮れになると後光の射さない赤提灯が三つ、村口から入ってどこかへ消えてしまうというものでしょう?」
「ほう」
どうやら初耳だったらしく、男は興味深げに前のめりになる。私は話を続けた。
「その提灯とは、遭難者の魂だと言われていましてね。うっかり見てしまった人は、後に祟られてしまうんです」
早い話が、遊び盛りの子供に向けて夜道の危険性を説いた民話である。桃太郎や浦島太郎のようなストーリー性もなければ恐ろしさにも欠けるため、教育の役目など皆無に等しいが、当然、麓出身である私も幼少の頃は母に口酸っぱく言い聞かされていた。北の山頂から赤い玉がやって来る様は、それはとても恐ろしいものなのだと。
「所詮は民話の域を出ない話ですよ。現に誰も見たことがないのですから」
固い肉を噛み千切り、酒でふやかして飲み下す。爽やかな口当たりに濃い塩味が丁度いい。ストーブの中で爆ぜる薪の音や、淡々秒針を回す壁掛け時計の音も、思い出の酒を楽しむための良いアクセントになっている。偶には冬場に小屋を開けるのもいいかも知れない。そんな考えが浮かんだところで、ふと、唸りにも似た雑音が耳に入ってきた。
時計が刻限を知らせる鐘を鳴らす。
途端、頭から冷水を被ったかのように思考が冴えてゆく。悍ましい感情が背筋を這い、堪らなくなってグラスを置いた。口に含んだままのビーフジャーキーがゴムのように味気がなくなっている。酷い異物感に、私は無理矢理に飲み下す。すると、そんな私の態度を見た男の口角がにい、と吊り上がった。
それは確かに笑みであるはずだった。悪戯好きの子供がするような、少しだけ意地の悪い顔。なのに、薄ら寒さが拭えない。背中を滑り落ちる汗のように、ぞわぞわと纏わり付いて、不快で。それは男の顔から感情が読み取れないからか、あるいは堅気でない空気を纏っているからか、まるで判然としない。すらりと細まった双眸に刺し殺されそうな恐怖が全身を這い回る。
そもそもこの男は、何の目的でここに来たのだろう。休業期間中にも拘わらずやってきたのは、果たして本当に偶然だったのだろうか。酒を持ち込んだのも、麓の民話を持ち出したのも、凡て承知の上だったのではないのか。冷静さを失った思考があらゆる事象をこじつけて、ひとつの巨大な陰謀を作り出す。
そんな私を余所に、眼前の男は、ほんのりと色付いた薄い唇を、妖しく綻ばせてゆく。
「なら、」
地を這うような声、ストーブの薪がぱちん、と大きく爆ぜた。
「今宵は用心なされよ」
男は炬燵から身を引き抜いて立ち上がった。一切の足音を立てずに襖の前に立ち、右手を掛けたところで一度止まる。そして「湯浴みに行って参る。良い飯であった」と残して部屋を出て行った。
男に置き去りにされた酒、食器、つまみ、そして私。言いようのない脅威が去ったことを自覚すると、息を詰めていたことを思い出す。深く息を吐き出し、天井を仰いで寝転がれば、びっしょりと汗を吸った服が背中に貼り付いた。嗚呼、不快だ。とても不快で堪らない。次第にムカムカと腹が立ってきた私は、
ぼんやりふよふよと漂う、三つの
不意に男の姿が蘇った。雪深い冬の珍客――時代錯誤の装い――祖父の好んでいた大吟醸。
『今宵は用心なされよ』
――そして、鋭利な刃の如き笑み。
「ああ……」
ガタガタと震えだした手でカーテンを閉じる。男の行方や提灯の正体など、疑問は脳裏に浮かんだだけで身体を動かすに至らない。否、深追いしてはならぬと、本能がそう告げているのだ。痙攣はいつの間にか両脚にまで伝播し、私はカーテンに縋りながらずるずると膝をついた。早く仕事に戻らなければ、男が戻って来てしまう。
何も知らない、何も見ていない。そう振る舞わなければ。
アレは山の祟りそのものだ。