捨て猫は段ボールに入らない - 1/2

 雨の中、人が道端で蹲っている。
 深夜、人気のない住宅街の片隅で、厳密には体育座りの恰好をしている人を見つけた。
「キミ、こんなとこにいたら風邪引くぜ」
 いつからそこにいたのか、濡れ鼠のまま微動だにしないその人は、僕の声に全く反応しない。生きているのか死んでいるのか。体育座りで死ぬとはどういう状況だろうと考えだしたところから、早々に死の可能性は棄てた。それよりも問題なのは、眼下の濡れ鼠が男であるということである。
「なぁキミ、行くとこないの?」
 これが儚そうな見た目の女の子だったらなぁ。脳内の僕がさめざめと泣く。見つけてしまった以上放っておくのも忍びない気がして声をかけてしまったが、本来ならば面倒事には首を突っ込みたくないのだ。だからせめて女の子であってくれと祈っていたのだが――やはりそんな訳はなかった。
「……」
 しばらくして、立てた膝の中に埋めていた顔がゆっくりと上がる。重たげな銀の髪は目元すら覆うほどで、隙間から除く赤の瞳が剣呑に僕を睨む。手負いの獣のような、とは、きっとこういう眼差しを指すのだろう。貼り付いた前髪が余計に不気味さを醸し出している。どうしたものかと首を傾げながら傘を持ち直していると、不意に腹の底で響くような低音が飛び込んできた。
「その手は喰わんぞ」
「は?」
 持ち替えた手から傘が落ちそうになった。コイツは何を言っているのだろう。知っている言語ではあるのだが、言葉の意味が全く理解できない。それなら聞き返すなりすればいいのだろうが、唐突過ぎて脳の処理が追い付かないのだ。
 そんな僕の態度を見て、男は自らの膝を抱き込むように腕の力を強めて「売り子を探しているのなら他をあたれ」と言ってきた。
 ああなるほど、そういうことか。
「悪いけど、僕にそんな趣味はないよ」
 膝を折って男と目線を合わせる。必要以上に警戒されているだけで意思疎通自体は可能であると判断して、少し会話をしてみようと思った。たぶん、彼はその手の男と間違えられた経験があるのだろう。
「それにこんな雨だし、行くとこがなければ僕ん家来る? すぐそこだから」
「結構だ」
 なんだよ、愛想がないなぁ。大体どう見ても下心なんか皆無じゃないか。喉元まで出かかった抗議をすんでのところで呑み込む。ホラ、野良猫がどれだけ人間を警戒しているのかよく解っているだろう。目の前の彼はそれと同じなんだ。そう自分に言い聞かせながら、普段の何倍も丁寧に言葉を選んで説得を試みる。
 しかし彼の疑心暗鬼は中々消えてくれず、結局は半ば引き摺るような恰好で連れ込まざるを得なかった。

   ◆

 実力行使に出ると、男は意外にもされるがままだった。たぶん逆上されることを恐れて手が出せないのだろう。嫉妬深い恋人よろしく手首を引っ張りながら帰宅すると、すぐさま風呂の準備に取りかかる。ずぶ濡れの服を全部脱がせ、適当な着替えと下着とバスタオルを持たせ、さっさとバスルームへ押し込んだ。湯は元々タイマーで張られている状態であったため、追い炊きボタンを押すだけだ。身体を洗っている間に温まるだろう。それはそうと、彼の身長が僕と殆ど同じなのには安心した。
 シャワーの音を耳に入れながらリビングに立つと、ひとりという慣れた心地を自覚した。バタバタと慌ただしかった数分前を思い出し、疲労が押し寄せてくる。このままソファーに倒れ込んで寝てしまいたい。そんな衝動に身を任せようとした瞬間、ぐう、と腹の虫が鳴いて夕食がまだであるとこに気が付いた。とはいえ、日付はとうに変わってしまっているからあまりガッツリ食べる訳にはいかない。冷蔵庫にはジャガイモとソーセージがある。
「……焼くか」
 どう考えてもジョッキいっぱいのビールで流し込みたい取り合わせだが、そこは我慢。連れ帰ったお土産の面倒を見なければならないからだ。
 キッチンの作業台にジャガイモ二個とソーセージ二パックを並べる。一口サイズに切ったジャガイモを電子レンジで軽くスチームして下拵えをすれば、後はソーセージと一緒に焼くだけだ。少量のオリーブオイルで香り付けもすれば風味もよくなる。それをカレー粉とケチャップで味付ければ、カリーヴルストの出来上がりだ。二枚の平皿に盛り、適当に残っていたパセリも振りかけておいた。
「……あ、」
 料理が終わって一息つくと、足音が聞こえて顔を上げる。いつの間にか風呂を終えたらしい男が、頭にタオルを被って現れていた。図らずも目が合ってしまい、僕は僅かに息を呑んだ。
「礼など言わないからな」
 相変わらずの視線が突き刺さる。けれどどうしてか、僕の身体は別の反応を示していた。
「ぁ……」
「なんだ、じろじろと」
 顔と、声がいい。
 そして妙な場所から、着火の兆しを感じる。
 いやいや待て待て待て。確かに最初見付けたときから「いい低音だな」とは思っていたけれど、それと愚息の興奮は別である。第一、僕の恋愛対象は女だ。男に劣情を催すなどただの一度もなかったのに、僕は一体どうしてしまったのだろうか。
「……おい、顔が赤いぞ」
 彼の訝しむ顔が僕に向けられている。というか、彼の瞳が僕を捉えている。真っ赤なジャムみたいでとてもきれいだ。未だタオルに覆われている銀髪の毛先がランダムなウェーブを描いて揺れている。乾けばきっとふわふわになるんだろうなあ。
「貴様……まさか……」
 ていうか何を言っているんだ僕は。彼が風呂から上がったならドライヤーをかけさせて食事だろう。あんな場所でずっと濡れてたんだし、きっと食事なんてまともに摂ってないだろうから「つまみでも作ったんだけど、よかったら一緒にどうだい?」と声をかければいい。共に食卓を囲めば、後は意気投合するのは時間の問題だから。
 だから。
 ああでも――おいしそうな声だなぁ。
「まさか貴様……やはりそういう目的だったのか!」
 瞬間、僕の意識は一気に現実へ引き戻された。いつの間にか彼の双眸には怒りの炎が宿っている。
「ちっ、違う! 誤解だ! そんな趣味はないって言っただろう!」
「うるさい黙れ! 呆けた顔を晒しておいて、今更言い逃れをする気か!」
「ちがうって! あれは……!」
 あれは、何だというのだろう。それに誤解とは?
 必死に身の潔白を証明しようと応戦するも、何一つ言葉が出てこない。当然だ。全部彼の言う通りなのだから。風呂上がりの姿を見て胸は高鳴ったし、今でも僕の下半身は窮屈な痛みを訴えている。何よりついさっきまで、あられもない妄想に耽っていたのだ。それらを馬鹿正直に伝えるつもりはないけれど、かといって法螺を並べて後々自滅する訳にもいかない。手詰まりとはまさにこのことだろう。
 嘘か誠か。何度天秤にかけても、開き直ってしまった方が長期戦にならずに済みそうな気がした。
 キッチンを出て、彼の前に立つ。少しだけ距離を取った位置で、膝をつき、両手を前に出し、額を床に擦り付けた。
「ごめん!! 面倒はちゃんと見るから、やっぱりベッドまでお願いしますッ!」
 しばしの無言。秒針の音を十ほど聞いたところで、地鳴りのような呻きが響き始める。
 そして――
「き、っさまアァ! やはり私の尻が目的だったではないかッ!!」
 めちゃくちゃ通る怒声だった。