刹那、ヒエラルキーの底で死ぬ ※R18 - 3/3

 自分の変化を自覚せざるを得なくなったのは、それからひと月が経ってからだった。
 休日、私は日用品のストックを買い込むため街に出ていた。ただ何気なく歩いていた。
 それなのに、急に訪れたヒートでパニックになった私は街の片隅で蹲っていたところを、アルファの男に襲われたのだ。
 初めは介抱してくれるのかと思った。しかし獣のように血走った目と荒い鼻息と、何よりも悍ましく膨れ上がった股間を私の手を掴んで当てられて、全身の毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出した。瞬きすらできぬまま、同じ男をただ仰視することしかできなかった。
 声も上げられなかったと思う。男は恐怖で完全に身が竦んだ私を引っ張って路地裏に連れ込んだ。
 そして性急にズボンを下ろし外気に晒した私の股間に触れた瞬間、男の動きがピタリと止まった。
 強姦は未遂に終わった。みるみる興醒めした男が足早に去って行ったのだ。
 私は下ろされたズボンを戻す余裕もなく、呆然とその場でへたり込み暫く動けなかった。じりじりと炙るような熱が下腹部で渦巻いており、それすらも恐ろしくて息が上がった。
 これが、オメガという性。
 私は最悪の状態で性転換を自覚した。

   ◆

 通常の成人オメガならばヒート周期が安定しているので街中で発情するといった醜態は晒さない。だがつい数ヶ月前まではベータだった私は、安定どころかいつ爆発するか判らない爆弾のような状態が続いている。医師から言われていた発情サイクルなど当てにならず、三日程度で収まるときもあれば一週間を過ぎても引かないときもあり、全く以て予測不可能な状態が続いていた。もう何度襲われかけたことだろう。今回は長めのヒートが終わった後だというのに、何がトリガーになったのかすぐに再発してしまった。
 地図アプリを頼りに、誰にも会わぬよう人通りのない道を選んで進み、漸く見つけた自宅マンションにほっと胸を撫で下ろす。

「あれ? サリエリ?」
「……ッ!?」

 が、どうやら詰めが甘かったらしい。背後から急に飛んできた声にびくりと肩を竦め、恐る恐る振り返る。
「あ、アマデウス……」
「なんだよ、化け物でも見たような顔して」
 そこには、私の反応に気分を害したのか、不貞腐れた表情を隠そうともしないアマデウスが立っていた。白いTシャツに黒のスウェットというラフな恰好で、缶ビールの入ったビニール袋を下げている。コンビニ帰りのようだった。
「それより、今日は早起きなんだな」
「いいや、徹夜明けだよ。やっと新曲ができたから、これから朝ご飯」
「酒は食事とは言わん」
「いいじゃんちょっとくらい。サリエリこそそんな恰好で……まさか朝帰り?」
「出張帰りと言ってくれ」
 本当はもっと早くに帰宅する予定だったが。要らぬ補足を口走りそうになり、慌てて口を閉ざす。
 アマデウスはふぅん、と興味なさげに言った。
「それよりさ、今から僕ん家こない?」
「なぜだ」
「なんでって……酷いことを言うんだな。僕が寝ずに作った曲、聴きたくないの?」
 徹夜で曲を作っていたとなれば、アマデウスの性格上私に聴かせようとするのは必定だ。それをよく痛感しているため敢えて触れずにいたというのに、やはりどうあっても逃れられない定めらしい。もちろん聴きたいとも。ぜひ私に聴かせてくれ。普段の私ならば平然とそう答えるのだが、今回ばかりはそうもいかなかった。
 昨晩の醜態を思い出して吐き気を覚える。

   ◆

 アマデウスはアルファ性だ。そうと知ったのは、皮肉にも私がオメガに転化してからだった。これまで微塵も感じなかった彼の体臭が肺を圧迫しそうな程に香りだして、それがフェロモンだと気付いた頃には身体が反応していた。切ないと収縮する自身の下腹。本来のオメガならばそこに子を成す器官があるのだが、紛い物のオメガである私には何もない。

〝欠陥品〟

 この三ヶ月間、私の腕を引いたアルファ達は口々にそう言い放った。
 子を成すために備わった性であり本能であるのだから、孕めぬオメガは欠落しているのだと。
 最もな表現だと思った。

   ◆

「ねえ聞いてる?」
「……はっ!?」
 いつの間にか思考の海に沈んでいたらしい。いよいよ怪訝な顔を浮かべ始めたアマデウスが私の顔を覗き込む。その表情に僅かながらも心配の色を含んでいると、疲弊した都合のいい脳はそう認識した。
「……っ」
 だが顔が近すぎる。甘く焚き付けるようなフェロモンの香りが強くなり、腰が引けてゆく。友人といえども彼はアルファ。紛い物でもオメガである私にとって捕食者も同然の対象だ。滲むように湧く熱と恐怖。徐々に身体が硬直してゆく。
 まだ残暑がしぶとく残ってはいるが、早朝であれば涼しさを覚えるようになってきた孟秋の候。ひやりとした風が私の頬を冷やすように撫でてゆく。寒暖差で思わず身震いする。外の涼しさとは裏腹に、私の体温は無情にも上昇を続けていた。
「……ふ……っ」
 ひくん、ひくんと切なく震える下腹部。収縮しては目の前の雄が欲しいと言わんばかりにきゅん、と震える。どこにも濡れる器官などありはしないのに、尻のあわいが湿り気を帯びているような気がして不快感を覚える。
 ――逃げなければ。

「ああ、そう……そういうことか」
 不意に温度を失った声が降ってきた。聞き慣れているはずのそれは、抑揚を失うとまるで別人の印象を受けた。心を閉ざしてしまったかのように、硬く、冷たい。磁器人形よりも抜け落ちた表情で向けられる緑青色の視線が、鋭く私の瞳を刺してくる。
 目が離せなかった。目を逸らせば終わりだと理性が警鐘を鳴らす。
 突然人が変わってしまった友人の胸中を推し量ることができない。私の恐怖を見透かすような眼差しに、いっとう深い恐怖へ落とされる。やはり転化したオメガのフェロモンに当てられてしまったのかだろうか。これまでの経験からどの現象が近いだろうかと必死に打開策を模索する。だが、相手を凍り付かせんとする勢いで冷えた彼の視線は、どの事例にも当て嵌まらなかった。
 アマデウスは、本能に支配された訳ではないのか?
「あっ……」
 ぐい、と左腕が引かれる衝撃につんのめる。くるりと背を向けたアマデウスの右腕が、私の左手首を掴んでいた。まるで血管が押し潰されそうなほどに強い握力だ。どこにそんな力があるのか、決して離すまいとする強い意志が、痛みと指先の冷えで苦しいほどに伝わった。
 引かれるまま目的地のあるマンションへ入ってゆく。だが彼が向かっているのは私の部屋ではない。目的地よりひとつ低い階でエレベーターを出て、私とひとつ違いの番号を持つ部屋の前で止まる。このマンションで二番目によく出入りする場所。
 アマデウスの部屋だった。
「う、あ……よせ……やめてくれ……!」
 捕食者の巣の中へ放り込まれるなりすぐさま施錠されてしまった。逃げ出そうにも玄関の前には巣の主が立っており、完全に袋の鼠だ。匂いがいっとうきつく私の鼻腔を犯す。絡み付くように抱き締められ、被食者を逃がさぬようにと背中に爪が立てられる。
 不意に首筋を鋭い痛みが走り肩が跳ねた。アマデウスの顔が埋まっており、私は噛まれたのかと遅れて理解した。
 背中に走る痛みが上へ上へと動いてゆく。肩甲骨の辺りを過ぎ、焦らすかのように肩周りを丁寧に傷付けられた。その間にワイシャツはよれてしまい、そのせいで項が無防備に顔を出す。そこへも彼の魔手が伸びる。
「……ッひ!?」
 びり、と一際鋭い痛みが甘い痺れを伴って襲いかかってきた。それがトリガーとなり、ぶわりと体温が急上昇する。
 あつくて堪らない。
 苦しくて息が上手くできない。
「はっ……やっといい匂いになってきた……っ!」
 何のことだ。
 呼吸を整えるようにアマデウスが低く笑った。平素の子供っぽさなど微塵も感じず雄臭い空気を纏って私を追い詰める。
 恐怖に支配されて硬直する脳と、アマデウスの精が欲して淫らにくねる身体。乖離が酷過ぎて、どちらに身を委ねたらいいのか判らず混乱を極める。
 こわい、いやだ、やめてくれ。
 叫ぶ理性が完全に置いてきぼりを喰らっていた。
「や、っ……あ……ぁ……」
 碌な抵抗もできないままもだもだしている間にシャツのボタンを全部外された。外気に震える余裕すら与えられず、溶けたアイスクリームの表面を舐め取るように舌を這わされる。もどかしい感触に名前が付けられず、混乱する脳は性感だと誤認する。制止の言葉を吐きたいのに唇ははくはくと開閉するだけで、時折か細い喃語をぽろぽろ零した。
 過敏になった乳首を掠めてびくりと跳ね、またひとつ喃語を零す。すると何がそんなに面白いのか、アマデウスはそこをしきりに舐め転がすようになった。粒が硬くなってゆくのが嫌でもわかる。ころころと飴を転がすように舌先で器用に捏ねくり回されて、甘い痺れを伴ったむず痒い感覚に気が狂いそうだった。
「んんっ……あ……アマ、でう……ッ」
 いよいよ体重を支えることが難しくなり、膝が笑いだす。しかしアマデウスに縋り付きながらもずるずると身体が沈んでゆく。服越しにぴったりと触れる彼の肌は湿り気を帯びていた。汗の匂いに交じったフェロモンが私を包み、身体の自由をさらに奪ってゆく。くらりと揺れる意識。力を失った膝。やがてがくんと落ちた上半身は、しかし咄嗟に腰を抱えられて静かに着地した。
「は……ぅ、あ……」
 不安定な体勢が幾許か安定した。しかしアマデウスは床に座り込む私を解放せず、腰に回したままの手をいやらしく上下させて堪能を続けている。胸倉を順手で掴んだままの私は逃げることも抵抗することもできず、されるがまま享受する浅ましい感覚にただただ震えていた。
 再び首筋に埋まったアマデウスの顔。熱い吐息と共にピリリと走る感触は彼の犬歯だ。かぷ、かぷ、と繰り返される甘噛み。それはまるで、お前の項なぞいつでも噛み千切れるのだぞと言わんばかりだった。
「……や…………め……」
 戦慄く唇が辛うじて紡いだこの科白は、果たして彼に伝わったのだろうか。数拍ほど遅れて止まった動きに安堵すると、徐に顔を上げて私の瞳と向き合った。
 濁った緑青色の瞳。その縁回りがほんのりと朱に染まり、情欲を示している。
 細い眉が精悍さを滲ませながら余裕なく顰められている。
 こめかみを伝い、細い顎の先からぽたりと汗が落ちた。

 オスの、顔。

 口端がにい、と持ち上がる。
 そして溜息交じりに落とされた科白は、私には到底理解し難いものだった。

「君がオメガになるのを、ずっと待ってたんだ」

 膣の代わりに彼を欲するソコが、ひくん、と揺れる。