世界は砂糖でできている - 3/3

 最初の一口は、慣れ親しんだ菓子であるヴィーナスの乳首から。
 ふわふわのパンケーキには、たっぷりのシロップが欲しい。
 ロールケーキは、中央のクリームから食べてしまいたい。
 先日、食堂で見かけたショートケーキは皆魅力的だった。
 甘味を食した後は口直しのドリンクを。
 中でもクリームソーダなるものは非常にそそられた。
 甘くて爽やかで、共に食したアップルパイとの相性は抜群であった。
 パフェとやらも、あらゆる甘味の食感を一度に味わえて贅沢だ。
 クリームソーダにも乗っていたサクランボが特にお気に入りだ。
 近頃のクッキーは多彩だ。
 慣れ親しんだ形状のものの中に変わった形のものが混じっている。
 ピアノ型や、細かい意匠の花柄、そして鳥に姿を変えた灰色の男。
 どれもたっぷりの砂糖で大変に美味であった。
 種類数多の果物が敷き詰められたタルトの中央に埋もれたい。
 クリームがはみ出るシュークリームに挟まれたい。
 割られたフォンダンショコラから蕩け出るソースになりたい。
 身の丈以上のドルチェに囲まれて、狂ったように貪っていたい。

 彼は自らに対して強い暗示をかける。さぞ食べ辛かろうに、眼下に横たわる胴体を割り開いて無心に頬張りながら「あまい、あまい」と口にする。真っ赤に染まる手、口、顎。その姿は、さながら食べ方の知らない赤子であった。せっかく着飾ったスーツも染みだらけにして、なんともだらしのない。それでも、私の胸中から湧き上がるのは底のない愛おしさだった。私を傷付けまいと苦心する彼は、復讐者の理によって植え付けられた衝動から真逆の行動を取ってしまう。そんな自己矛盾に、何度慟哭していただろうか。
 焦りは杜撰さを産む。やがて綻びだらけの自己暗示から戻ってしまった彼は、自らの過ちに肩を震わせた。鈍色の髪を揺らして、小さな喃語をぽろりと零す。
 闇ばかりの空間で響いていた水音が止んだ。伏せた顔は、自身の掌を熱心に見つめている。ああ今日はもう潮時だな。私は極力足音を立てずに彼の背後へと回り込む。そして、声をかけてやった。

「私は美味しいかい? 灰色の男」

 これが、私と彼との間で交わされる食事終了の挨拶だ。罪業の証から目を逸らして振り返った彼は、水分だらけの笑みを湛えて是と答えた。涙の意味など理解できず、ただ〝美味かった〟という記憶だけが残るように。
「さあ、今日はもうお帰り」
 夢から覚めれば、君を汚すものは何もなくなっているだろう。そう続けながら、未だ横たわり続ける料理わたしから離れるように、私は彼の背中を押した。振り向いてはいけないよ。さあ、マスターが待っている。やがて彼の意識は、漂白された人類史へと帰って行った。

 彼の霊基を維持するには私が必要だ。自己否定によって生ずる自己矛盾に押し潰されて自決してしまわないよう、醜聞の大元である私を喰わせなければならないのだ。
 だが、私の背後で肉塊と化しているそれ・・はもう次の食事には使えない。残飯を再利用する術を持たないため、大人しく廃棄するしかないのだ。空間の清掃を行いながら、次はどんな甘味に見立ててありついてもらおうかと夢想する。どうせならもっと美味そうな顔をして頬張ってほしいものだが、彼の暗示にそこまでの効力はない。座に刻まれて間もないからか、そこに気を回すだけの余裕がないのだろう。
 嗚呼なんと愛おしいのか。
 私は、いつ訪れるとも知れない彼の再来に心が躍るのを感じた。