僕がこの家を標的に選んだのは、何となくだった。
敢えて理由を答えるなら、その家に住む家族が〝幸せそうだと思った〟からだ。
路地にまで漏れ聞こえる談笑。小さな男の子が騒ぎ、一緒になってふざける父親。それを呆れながらも微笑ましげに見守る母親。
ごくありふれた、けれど誰もが羨む幸せの象徴が、その家にはあったのだ。
朝、出勤する夫をキスで見送る夫婦の一幕。次いで元気よく飛び出す眼鏡をかけた空色の小学生を、弁当を持って追いかける母子の一幕。
見送りを終えた母は昼になると買い物に出かける。戻る頃にはいつの間にか一緒になっていた近所のおばさん数人と、その家の前で井戸端会議をする。
おやつどきには子供が帰宅。最近流行のカードゲームをしに友達の家へ行くと言っていた。
夕方には父親と共に帰宅し、笑いの絶えない夕食が始まる。
なんて完璧な一日だろう。何度も何度も、繰り返し眺め続けて、やはり僕はこの家を標的にしようと思った。早速新しい包丁を買い、闇サイトで効率的な人の殺し方を調べ、入念にイメージトレーニングを重ねる。
決行は日曜日の昼。
どこへも出かけることなく、全員が家にいるときを狙おう。
運命の日。周到な準備のお陰で、僕は幸せな家庭を崩壊させることに成功した。
宅配便と偽って押しかけたのを皮切りに、まずは出迎えに来た母親を一刺しした。声もなく崩れ落ちてゆく身体を一瞥し、そのままズンズンと奥へ歩く。
次に目に留まったのは父親だった。彼とは同じ男ということもあって少し苦戦した。血の付いた包丁を持つ僕に引き攣った悲鳴を上げ、かと思えば泣きそうな雄叫びを上げて襲い掛かってきた。暫く揉み合うも、隙を見て足払いを決めたことで勝利の女神は僕に微笑んだ。馬乗りになり、眼下で無防備となった男の胸に躊躇いなく凶器を突き立ててやる。男の背面から赤い液体がじわりと漏れ出て行く。土気色にくすんだ身体がぐったりと弛緩したのを確認して、僕はそこから離れた。
悲鳴もなく、命乞いもされない機械的な殺人。これほどに呆気ないのなら、この家族を模した美しいガラス細工を叩き割る方がまだ楽しげがあったかも知れない。僕はただ、幸せの象徴を絶望と悲劇の舞台に引き摺り上げたかっただけなのに、大根役者よりも酷いだなんて知らなかった。
とんだ誤算だと思った。
なら残るはあとひとり。
眼鏡をかけた空色の可愛らしい少年に、後を託すしかない。
そう思って僕は階段を登り、二階へ向かう。
部屋は三つあった。階段から左手の方にはふたつの扉があり、右手はひとつとなっている。ふたつの内のひとつはついさっき死んだ両親の部屋だ。ご丁寧に〝パパとママの部屋〟と書いてある。
そして残り左右のどちらかはあの子供の部屋だろう。さてどっちだろうか。あの少年はまだ甘えたい盛りにも見えたから、左側かも知れない。一カ所だけ離れている右の部屋は多分、物置か何かだろうと推測する。
僕は興奮状態にも似た憎悪に突き動かされるまま、その左方向へ進路を取った。
ドアノブを握り、捻る。冷静さを失った今の僕に、ノックしてなるべく穏便に入室するという選択肢はなかった。
無抵抗に開いた木の板の先に広がる光景は、幸せの象徴と信じて止まない家庭には似つかわしくない異様さを放っていた。
「え……」
日が高いにも拘わらず締め切られたカーテン。明かりは一切点いておらず、黄昏時のように暗い。目を凝らして周囲を見渡せば、無機質なほど質素な家具が最低限並んでいるだけ。何も乗っていない天板だけの勉強机と、小さなタンスがひとつ。
そしてベッド。僕の視線を釘付けにしたのは、その上でぼうっと上体を起こしている人影だった。
「……だれ……?」
自分のことを思い切り棚に上げてでも、聞かずにはいられなかった。だって知らないのだ。
この家にこんなあの少年以外の子供が住んでいただなんて。
人影は酷くゆったりした動作で顔を上げた。肩くらいの長い髪がさらりと音を立てて流れる。翡翠を思わせる、不思議な色の髪だと思った。
そして侵入者の姿を射止めた瞳も、髪と同じ色をしていた。
あの空色の少年ではない。
「…………」
真っ白なかんばせをもつソレは、静かに僕を見詰めていた。何の感慨も湧かないような眼差しで、人形よりも無機質にただ見ていた。お前は誰だ、とも、返り血を纏う僕に恐怖する様子もない。涼やかで端正な顔は寒々しい色合いのせいで余計冷たさを感じる。特に少し気怠げな切れ長の瞳は中々の威圧感だ。僕の方が気圧されてしまいそうになる。
年端もいかない丸い顔。僕より年下なのは間違いないが、標的にしていた空色の少年よりはきっと年上だろう。あの少年は、こんな冷たい顔をしない。
ソレはパジャマを着ていた。病気なのか、顔色もあまりいいとは言えない。生きているはずなのに、まるで生気を感じなかった。多分それは、彼が一向に動こうとしないからだろう。
ひた。
ひたり。
僕の足はまるで吸い寄せられるかのように前進を始めた。一歩ずつ、体幹をふらつかせながらソレの許へ近付いて行く。距離が詰まる毎に、ソレの様子がハッキリ見えた。パジャマの布が異常に余っている。幸せな家庭には似つかわしくない、痩せ細った身体をしていた。
加えてそのパジャマは、みっともなくボタンがかけ違っていた。
「ねえ……ボタン、直さないの?」
けれどソレは、まるでどこ吹く風といった様子で、僕を追っていた翡翠は変わらず僕の虹彩を見詰めるだけ――
だったのが、逸れた。
ソレが次に興味を示したのは僕の手元だった。それも、血に塗れた右手の方。やっと僕が殺人犯だということに気付いたのだろうか。もう少しまともな反応を期待して待っていると、ソレは僕の予想とは違った科白を口にした。
「……ころしたのか?」
少し舌っ足らずなのに、落ち着きのある低い声。幼いんだかそうでないんだか判別が付かなくて気持ち悪い。
「ああそうさ。何なら君も死ぬんだよ」
ほら、と右手を掲げてやれば汚れた包丁がキラリと光る。こうすれば流石に恐怖も芽生えるだろうと思ったが、ソレは何故か目を細めただけだった。
「そうか……おれもしぬのか……」
なんで嬉しそうなの。
ソレはうっとりと言葉を続けた。
「ちのにおいがしたとき……ついにそのときがきたとおもったんだ……おまえは、おれをここからつれだしてくれるんだろう?」
「なにを……言ってるの……」
知らない、しらない。
何なんだよ、オマエ。
「ああそのまえに、おれいをしなければならないな。しんでしまえばなにもできなくなる。きみはなにかのぞみはあるか? びりょくながら、おれにできることがあればなんでもしよう」
まるで水を得た魚のように、ソレは声を弾ませながらズルズルと僕に近付いてきた。細い指に縋り付かれる。その様は、さながらホラー映画でよく見かけるゾンビみたいだと思った。
ソレは恍惚とした熱っぽい眼差しで僕を見上げる。瞬間、背筋を冷たいものが滑り落ちる感覚がした。生唾を飲み下す音がやけに五月蠅く感じる。
この音はどうやらソレも聞こえたらしく、ああ、と溜め息を吐きながら妖しげに笑みを深めていった。
「それならおれのとくいぶんやだ。きにいってくれるかふあんだが、ぜんりょくをつくしてきみをまんぞくさせよう……」
しょうしょうみぐるしいからだをしているが、きにしないでくれ。なんてのたまいながら、ソレはいそいそとパジャマのボタンに手をかけ始める。
僕は反射的にナイフを取り落とし、その手を掴んで動きを止めた。
「まって。しなくていい」
代わりに、かけ違ったままのボタンを戻してやる。一瞬だけ顔を覗かせたソレの素肌には、夥しい数の斑点が散っていた。大小様々で、青黒い色だった。
ソレは、僕が憎んでいた〝幸せ〟から最も遠い姿をしていたのだ。
気付いた途端、殺したくて堪らなかったはずの存在に憐憫にも似た庇護欲が湧くのを感じた。
「……ころして、くれないのか……?」
温かな衝動のまま、僕はソレに腕を回す。病的なまでに骨張った肢体に自らの腕を絡めて抱き締めれば、ソレはびくりと痙攣する。忘れ物から戻った恐怖がやっと所定の位置についたみたいに。
ソレの声は震えていた。
彼と僕は同じだと思った。幸せを経験していないのだ。毎日毎日毎日、自分の身に降りかかるのは痛みだけ。ほんの僅かに差す光明も、これまで以上の痛みを経た先にしか存在しない。そしてその光明すら、別の痛みであって何の安らぎにもならない。苦痛以外は全て偽りなのだ。
けれど、僕の場合は外へ逃げ込めたが、彼はきっと違う。誰もが出入りできてどこへも逃げられない檻の中で、ずっと痛みに耐え続けていたんだ。
ソレはここから出る術を知らない。だから解放されるには死ぬしかないと本気で思っているのだ。
「これをつかって、はやくりょうしんみたいにころしてくれ。たのむ……おねがい……」
ほら。彼はベッドから這い下りて、床に転がった包丁を僕に握らせて頻りに訴えている。自分でやればいいのに、彼はその意思すら持たせてもらえなかったんだ。
「ねえ君、ひとつ提案があるんだけど」
持たされた包丁を再び床に置き、ソレと同じ目線になるようしゃがむ。
「僕の名前は天上院吹雪。これから警察に出頭しようと思う。で、刑期を終えたら……君を迎えに行ってもいい?」
「おれを……? なぜ?」
「君を外の世界へ連れて行ってあげたいんだ。外にはそれなりに楽しいものがあるからね」
「それは、しぬことよりしあわせか?」
「少なくとも……死ぬよりは痛くない」
だからどうだろう。
よければ君の名前を聞かせてくれないかな?
沈黙すること数分。締め切られたカーテンの向こうからは微かにサイレンの音がする。
辛抱強く彼の言葉を待っていると、硬く引き結ばれていた蕾が遂に綻んだ。
音がけたたましくなってブツリと切れる。
「まるふじ……りょう……」
綺麗な名前だと思った。