モラル=ハザード - 3/3

 総合駅の裏は、ビジネスホテルの皮を被ったラブホテルがそこかしこに点在している。それは、飲み屋が並ぶ路地の裏に、低俗な屋号を掲げる店が人目を忍ぶようにして立っているからだ。休日を明日に控えたサラリーマンが、居酒屋でハメを外し、はしごした風俗店で散財する。そして人によってはホテルで朝まで過ごすのが定番なのだろう。随分と合理的な街の構造をしているものである。
 彼の家は、そんな姦しい歓楽街を抜けた先の住宅街にあった。レンが造りの古いアパートが建ち並ぶ通りの中の、比較的新しそうな見た目のマンションだった。

 部屋に入ると、手に入れた獲物を捕食するような荒々しさで、彼は俺の唇を奪った。一瞬の不意を突いた出来事に反応できなかった俺は、この構図がいかに不自然なことか理解するまでに数秒の時間を要した。遅れてやってきた不快感に眉を顰めれば、絶妙のタイミングで彼が離れていく。

「何の真似だ」


 僅かに痺れの残る感触が堪らず、袖口で乱暴に拭う。彼はいけしゃあしゃあと「いい刺激だったろう?」とのたまった。


「丸藤が誰に懸想してたのかは知らないけど、そんなに忘れられないなら、いっそ正直に別れてしまえばいいじゃないか。君にはそれを実行するだけの力があるのに、なぜ選ばないんだ?」

「云っただろう。あれは学生特有の気の迷いだからだと」
「それは本当に気の迷いだったのか、検証してみた?」

 カフェのときとは別人のような饒舌さだった。淀みなく紡がれる科白には些細な綻びすらも逃さない鋭さがあり、俺は彼に尋問されているかのように錯覚してしまう。

 しかし彼のペースに呑まれてはならない、という危機感だけは漠然とあった。半ば本能にも近いその警鐘を頼りに、どうにか彼の口撃に応えていく。

「どの道このまま結婚生活を続けても、いつか奥さんになじられるだろう。子供もつくらせてもらえず、自分以外の誰かに気が行っているだなんて、俺が君の奥さんだったら耐えられない」

「その返事はまだ出していない。第一、俺の過去をアイツは知らない」
「へえ……じゃあ、今日が結婚記念日だって覚えているはずの夫から、帰りが遅くなるって連絡をもらっても……なんでアッサリと了承したんだろうね?」
「それは……」
「今まで記念日には必ず早目に帰宅してたんだろう?」

 だがもう、限界だった。


「奥さん、実はもうとっくに気付いてたんじゃない?」


 一人分の空間があったのを、彼の前進によって埋められる。彼は穏やかな笑みを浮かべながら、労るように俺の腕を撫でた。二の腕から肘の線を行き、到達した掌を柔く包まれる。


「たしかに丸藤は、欲しいと思ったものを手に入れる才能がある。でも本当は、君の本質は、求めるよりも求められる方に喜びを見出す人だろう?」


 彼は手に取った俺の手を熱心に見つめ続けた。


「だって誰かに頼られてる丸藤って、すごく魅力的な顔をするじゃないか。生き生きと、嬉しそうで」


 その視線が、ゆっくりと上がり、絡む。

 そして、アメジストの双眸が、ニイ、と妖しげに細められた。

「だからさ、一度その本質に、立ち返ってみないか?」


 何も言い返せなくなった俺を余所に、彼の甘い囁きが思考を奪っていく。それは小さな痺れに変わり、ぞわりと脊椎の上を走った。痺れが腰椎に到達した瞬間、ひくりと下腹部が蠢く。俺は堪らなくなって、いつの間にか詰めていた息を吐いた。

「ほら」と彼に手を引かれ、部屋の奥へと無抵抗に歩き始める。間取りなど知る由もないが、どうしてか行き先だけははっきりと予見できた。行儀よく閉ざされた扉が開き、最初に飛び込んできたのは、独り寝にしては少し大きなベッド――
 最早逃げることは叶わない。

「これで君を家に呼んだ理由はわかっただろう?」


 それでも彼は、なおも俺の選択に委ねようとしてくる。その優しさすら、逃走の意思を折られた俺にとって茶番じみた戯れとしか感じない。道中に見かけた、歓楽街を往来するサラリーマンと同じ顛末を自分も辿るのだと思うと、乾いた笑いが込み上げてきた。あんなに軽蔑していたというのに、結局、俺も連中と大差ないではないか。


「その前にシャワーを浴びたい。受け入れるなら、何かと準備が必要だろう」

「ああそうだったね。じゃあ、後で着替えを用意しておくよ」

 この瞬間、俺の意識から彼女の姿が消え去った。