モラル=ハザード - 2/3

 同じフロアの端に、こぢんまりとしたカフェがある。
 ハイブランドエリアの一角にあるため、そこは人の多い時間帯にも拘わらず客は疎らだ。薄暗い店内に流れる静かなジャズ。それに耳を傾けているのか、飲み物を片手に談笑する客には品があり、落ち着いている。
 彼は、ぐるりと周囲を見回すと、奥まった角のボックス席を選んだ。二人がけの席が空いていてもそこを選んだということは、きっと俺に配慮したのだろうと思われた。向かい合うように座り、飲み物を一杯ずつ頼む。それが来るまでの間、互いに沈黙を守り続けていた。

「奥さんと何かあった?」


 ココアの芳香がふわりと漂う。その甘ったるさを上書きするように、手元のブラックコーヒーを口に含む。ただ苦みを味わいたいだけの俺にとって、それは上品すぎる味だった。もごもごと口内で転がしてもそれは変わらず、諦めて飲み下す。


「べつに、話したくないならいいんだけど」

「……」

 カラカラに渇いた口をコーヒーで潤しても、それはほんの一時に過ぎなかった。すぐにまた水分を失い、何か発しようとも掠れた吐息ばかりが漏れていく。仕事中ならばよく回る思考も、今は錆びついたように止まっている。


「そういえば最後に会ったのって、四年前? だよね。結婚式以来じゃない? あれから皺のひとつでも増えてるかと思ったら全然変わってなくて、びっくりしたよ」


 まるで考えること自体を拒むかのようだ。俺が切り出すまで待つことに決めたらしい彼が、とりとめのない思い出話を始めた。彼の弾んだ声が、ジャズの音と混ざって耳をすり抜けていく。何ひとつ内容が頭に入らず、俺は手元の黒い水たまりをじっと睨むばかりだった。

 彼の話は止まらない。合間にココアで唇を湿らせながら、俺に制止されるまで喋り続けるのだろう。

「――でさ、結婚式以降、吹雪とは会った?」


 不意にコーヒーの水面が、かちゃん、と震えた。一瞬、自分が何に反応したのかわからず、顔を上げる。彼は穏やかな笑みを浮かべたまま俺を見ていた。甘ったるいココアの香りが鼻につく。


「どうしたの?」

「いや……」

 彼の首がことん、と傾く。その猫のように可愛らしい眼差しから、不意に得体の知れないものが一瞬だけ顔を覗かせた。それはすぐに引っ込んでしまったが、俺はもう一度頭を出す瞬間を待つ。照明に反射する紫の虹彩に焦点を絞って見つめると、彼は何事もないような態度でするりと逃げてしまった。伏せられた瞼の先にはティーカップ。その取っ手に指を引っかけ、残り少ないココアを優雅に呷る。

 視線の行き場を失った。俺も彼と同じように、手元のカップに視線を落とすしかない。まだなみなみと揺れる黒い液体は、冷め切って風味を損なってもなお、俺に飲まれるのを健気にも待っている。それを半分ほど一気に飲み下す。

「吹雪とは……あれ以来、一度も会っていない」

「へえ、そうなんだ」

 磨き抜かれたテーブルとカップの切り取られた視界に、彼の気のない相槌が通り過ぎる。すると、視界の端から白い指が入り込んできた。蛇のように這うそれは、カップの傍らに投げ出した俺の右手をなぞる。


「何の真似だ」


 顔は上げなかった。


「べつに?」


 弾む彼の声に意味のある言葉はない。くすくすと鼻を鳴らしながら、彼は自身の体温を俺に分け与え続けている。やがて同じ温度になり、感覚が麻痺しても彼の奇行は続いた。

 しばらく彼の好きにさせていると、不意に背筋を小さな虫が這うような感覚に襲われた。咄嗟に身体を硬直させるも、肌に残った不快感が堪らなくて僅かに身を捩る。すると、どうしてか下腹の奥が甘く蠢いた。
 彼の指に焚き付けられた身体が、徐々に誤った挙動を始めていく。じくじくと痺れる下腹部。今すぐにでも立ち上がりたくなるほどの疼きが堪らない。
 そして腹立たしいことに、これは初めの感覚ではなかった。
 今はまだ平静を保っているが、その我慢がいつまで持つのかわからない。体温も脈拍も、急速に上昇しているだろう。醜い欲求を気取られないように、俺は彼の手から逃れるようにカップを持つ。一度唇を湿らせて――しかしソーサーに戻そうとした手が止まる。

「なんだ、動揺してるのか?」


 彼の手が、まだそこにあるのだ。


「悪い冗談はよせ」


 このままカップを戻せば、蟻地獄よろしく待ち構えるそれに捕まってしまうだろう。腹の底の黒いものを引きずり出してくるような指使いに、次はきっと正気でいられなくなる。舌打ちを堪えながらしばらく逡巡し、結局手前へ引き寄せて腕を下ろす。

 カツン、という音が乱れた思考を止めた。現実に引き戻された俺は、ここへ寄り道した目的を忘れていたことに気付く。瞼を閉じては開き、肺に酸素を取り込むと、ずっと意固地になっていた科白は案外するりと口をついて出た。

「元は他人同士が、どんな理由であれ死ぬまで生活を共にするなど、非現実的だと思わないか」


 彼の目がみるみる丸くなっていく。その反応は、突飛な切り出しに驚いたというよりも、妻帯者らしからぬ内容に面食らったようだった。


「丸藤はそう思うのか?」


 確かに、あんな問い方をすれば、同意を求められているものと聞き取れてしまうだろう。悪手を選んでしまったことに、思わず舌打ちする。ささくれ立つ俺の胸中を悟った彼に「奥さんと何かあった?」と顔を覗き込まれた。その気遣いすら、苛立ちが募る材料に変えてしまう。狭量な自分が腹立たしい。

 自己嫌悪と訳のわからない怒りに、俺の思考はまたしても統一性をなくしていく。

「違う、彼女とは何もない」

「じゃあ、」
「何もないんだ、なにも……彼女と」

 ゆえに、自分が何を口走ったのか、彼が言葉を発するまで理解できなかった。

「なにも……何もって?」彼の声が俺の科白を反芻する。疑問を象った鸚鵡返しを耳にしてようやく、俺はこの日一番の失言をしたことに気付いた。今更弁解しても手遅れだろう。潔く観念して、続きを語るしか道は残されていなかった。
 カップに口を付ける。冷え切った酸味が味蕾を刺激し、少しだけ思考が明瞭になった。気休めかも知れないが。

「所帯を持てば、多少なりとも意識に何かしらの変化があるのでは、と考えていた。だが……四年目を迎える今になっても、やはり、何も、起きなかった」


 吶々と独り言のように零す俺に、彼は「奥さんのことは好きじゃなかったのか?」と尋ねてきた。俺はそれに力なく首を横に振る。


「好きか嫌いかは、最早問題じゃない」

「つまり?」
「何もなかった」

 彼は腕を組んで「うーん」と唸る。馬鹿の一つ覚えみたく、同じ結論ばかりを口する俺に手を焼いているのだろう。話を聞いてもらっている手前、どうにか別の言い方に変えたいところだが、前例のない感覚に困惑する俺は他に言葉を知らなかった。他に取れる手段と云えば、この身に起きた出来事を語ることだけ。

 俺はゆっくりと、重たい口を開いた。

 彼女とは、出会ってから結婚に至るまで、ごく普通の恋愛を経たものと自負している。互いに仕事をしながらだったため、会うのは二週間に一回程度だが、そのときは一日のすべてを彼女に使った。映画が見たいと言われれば映画館へ行き、気になるカフェがあると言われれば、どんなに遠くともそこへ連れて行った。厄介なお局の話題が出れば聞き役に徹し、なにより、記念日や互いの誕生日には必ず時間を作って祝うようにしていた。やがて彼女の方から結婚の打診があり、ほとんど待たせることなく了承すると、数日後には入籍していた。その後は当然、結婚式も執り行った。
 それは誰もが理想とする〝幸せ〟の形であるはずだ。俺は目に映る我が家の光景に正解を見出したからこそ、今日まで過ごすことができたのだ。彼女の好意に応え続ければ、腹の底で泥のように堆積する不快感も浚えてしまえるのだと信じながら。
 今朝、俺は出しなに彼女に呼び止められた。もうすぐ結婚して四年目になるね、という記念日の確認を始めた彼女の様子に胸騒ぎを覚えた俺は、返事以外の言葉を発することができなかった。儚そうな見目の彼女は、存外に強かで芯がある。ぎこちない会話に臆することなく紡いだ二の句は、俺を絶句させるのに十分過ぎる役割を果たしてくれた。

「だから、そろそろ……どうかな? ホラ、四年目にもなると、両親も口煩くて」

 全く想像がなかった訳ではない。きっと、腹の不快感はその可能性を示唆していたのだ。しかしいざ眼前に突きつけられると、その当然すぎる方程式が俺にとっていかに恐ろしいものか、厭でも自覚してしまう。暑くもないのに噴き出した汗が背中を伝い、ぞわりと這う感触に眉を寄せると、誤解した彼女が慌てて「ごめん、イキナリこんなこと言って」と手を振った。

「そういう話は帰ったときの方がいいよね。行ってらっしゃい、お仕事がんばって」

 そうして半ば追い出されるようにして見送られた俺は、彼女の言葉に怯えて帰宅を先延ばしにしている。今、藤原とカフェで過ごしているのは、なにも再会を懐かしむためではないのだ。
 怯えの理由は明白だ。浅ましい未練を、彼女に向けるべき感情へ変えることのできなかった自分の本性を知られてしまうから。その未練は学生特有の気の迷いで、決して実らない、実らせてはならないものだと理解している。ゆえに一度も伝えることはなかったし、誰にも相談しなかったのだ。墓場まで持って行くことすら馬鹿らしい。
 そんな唾棄すべきか感情を、彼女と結婚して四年も経つというのに――俺はまだ棄てられずにいるのだ。

「つまり丸藤は、片思いを忘れるために今の奥さんと一緒になったけど、いまだに忘れられない、と?」

「……そんなところだ」

 どの程度詳しく語ったのか最早覚えていない。しかし彼の反応を見るに、俺が誰に思いを寄せていたのかまでは話さなかったのだろう。その名前を口にすれば、彼との関係すらも崩壊してしまうのは目に見えている。


「たしかにそれは帰りづらいよなぁ……」

 彼はしばらく考える素振りを見せてから「よし」と向き直った。何か閃いたらしく、その目には、鬱屈した話題に似合わず強い光を放っている。

「せっかく再会したんだし、俺の家に来ないか? ほら、ずっとここに居座る訳にもいかないだろう?」

「藤原の?」

 彼は名案とばかりに力強く頷いた。僅かに胸を張ったその姿勢は、猫背気味な普段と違い、少し背が伸びたように見える。カップに一口分だけ残ったコーヒーを飲み干せば、彼の云う通り、ここに居続ける意味を失う。中身を空けたその後の行動を選ぶことは、今までの人生の中で最も重要な人生の分水嶺のように感じた。空虚な自分を偽り続けるのか、一度でも己の思うままに動いてみるのか。


「ほら、丸藤ってさ、自分に嘘つくの、案外下手じゃん」


 甘美な響きが耳介を通して脳髄に染みていく。それは自覚を失念するほど的確に、俺の本性を暴く。

 そうだ。このまま自宅に戻っても、散々に肥え太った未練が消えるわけではないのだ。元の日常に戻れないところまで放っておいたのは、他ならぬ俺自身である。
 決心がつけば、動くのは容易だった。雀の涙ほどの液体を一気に呷ってカップを置くと、コートと鞄と伝票を引き寄せて立ち上がる。視線を遣れば、彼は不思議そうな顔をして俺を見上げている。

「世話になる。案内してくれないか」


 そう声をかけてやれば、彼は子供のように無邪気な笑みを浮かべて「もちろん!」と席を立った。