パンドラのズボン

「吹雪……ちょっといいか」

 朝。普段より三十分ほど早く、僕は目が覚めた。隣室の親友、丸藤亮が早朝にも関わらず僕の部屋を訪ねてきたからだ。
「……こんな時間にどうしたんだい?」
 この時間はまだ僕が夢の世界にいることくらい知っているだろうに、それすら待っていられないほどの緊急事態なのだろうか。急な覚醒で重怠い身体を何とか起こし、ドアを開けて出迎える。
 訪問者はとうに制服を纏っていつも通りの顔をしていた。焦っている様子もなければ、不安がる感じもない。
「朝早くにすまないな」
 そして、おはようの後に続いた科白もいつも通りの平淡で落ち着いた声だった。
 なら亮はどうしてこんな非常識な訪問なんかしたのだろう。
「何かあったのかい?」
 よく考えたら彼は、どんな状況に出会しても顔に出るようなタイプではなかった。頭上に蛇が落ちてきても、好物の具なしパンを引いても、はたまた手札が事故ったときも、表情は愚か声音すら変わらない。つまり彼の風采から状況を読み取ることは不可能に近いのだ。
 だから、尋ねるしかない。無表情な上に寡黙な亮から問題を引き出すのはそれなりに苦労するけれど、聞けば嘘偽りなく答えてくれる。そこは彼の最も信頼できる要素だった。
 亮は僕の質問に「ああ」と返事をした後、一旦口を噤む。よほど言いにくいのか僅かに目を伏せて考える素振りを見せてから再び僕の瞳を真っ直ぐ見詰めてこう言った。

「お前、ズボンの替えは持っていないか?」
「……は?」

 そして内容が予想の斜め下を行き、僕は思わず脱力してしまった。
 いやもちろん持っているけれど、それは君も同じなのでは?
 南の孤島で寮生活する以上、洋服のストックはそれなりにあるはず。確かに亮はファッションにさほど興味がなさそうだけれど、それでも生活に困らない数プラスアルファ位は用意しているだろう。にも拘わらず、彼はこんな時間に僕の部屋を訪ねてズボンの替えの有無を聞いてきた。つまり、そういうことなのだろう。
「えーっと……君、自分のは?」
「それが汚してしまってな……。情けない話だが、生憎と予備のズボンは全て洗濯してしまっていて、持ってないんだ」
 よく見たら亮の下半身はパジャマ状態だった。上はきっちり制服を着込んでいるから、そのアンバランスさに頬が緩む。
「お前なら体型も似ているし頼めないか? 流石にこの恰好で授業を受けるのは気が引ける」
 亮の表情が、みるみる気まずそうに曇ってゆく。僕がちっとも返事を出さないせいで羞恥心が芽生えたらしい。仕舞いには俯き、蚊の鳴くような声で「すまない」と零す。
「しょうがないなぁ。ま、取り敢えず中へどうぞ」
 親友の珍しい表情が見られて、思考を鈍らせていた眠気は吹っ飛んでいた。僕は半開きだった扉を大きく開けて身を引く。令嬢を歓迎するような恭しい仕草で促してやれば、令嬢もとい皇帝は少し困った顔をして入室する。そしてソファーに座って待っているように声をかけてからクローゼットの扉を開けた。
 色とりどりの私服ばかりが容積を占める収納の中で、亮が身に付けても問題なさそうな一点を選ぶのは意外と難しい。もちろん校則上、制服の下に穿くズボンにはある程度決まりがある。が、それよりも遙かに私服の方が多いため、きちんと収納していても埋もれてしまうのだ。
 これはアロハ用の短パンだし、これはステージ用のスラックスだし――あ、このズボンずっと探してたやつだ。
 ――あった、この黒のスラックスなら大丈夫だろう。なんなら僕とお揃いだ。
 ようやく目当てのズボンを探り当て、嬉々と身を翻す。
「お待たせ! コイツでどうだい?」

 ドタン!

 視線の先には、ソファーに座っているはずの亮が、入室と同じ場所で膝をついていた。
「亮!」
 ズボンをソファーに放り、駆け寄る。顔を覗き込むと、白皙の肌が青白くなっていた。右手は額を押さえ、左手は下腹部の辺りを押さえている。もしかしなくてもこれは体調不良なのでは?
「僕にズボンを借りてる場合じゃないだろう。先生には言っておくから、今日は部屋に戻って休みなよ」
「いや、大丈夫だ……すぐに治まる……」
 どう見ても大丈夫には見えない。しかも亮は、心配する僕を押し退けて「たまになるんだ」などという始末だ。
 だったら尚更、今日の所は安静にしておいた方がいい気がする。
 けれどこういうときの亮は非常に頑固だ。元からその気はあるのだけれど、こうして自分の弱味になりそうなことになると一層強くあろうとするのだ。それが亮の美点であり欠点でもある。
 今回は後者だ。今は大丈夫でもまた倒れたらどうするんだとか、君が心配なんだとか、色々言ってみたけれど暖簾に腕押しだった。
 ゆっくりと立ち直った亮は結局、ソファーに放った僕のズボンを手にそそくさと出て行ってしまった。素っ気なく「助かった」なんて科白を残して。

   ◆

 それから暫くして隣室の扉から人が出て行く音が聞こえた。僕は何気ない雰囲気を装って部屋を出ると、汚したと言っていた自分のズボンを手に僕の眼前を横断する亮を見た。彼の長い足が纏っているズボンは黒。僕のものだった。どうやらピッタリだったらしい。

 ふと疑問が湧いた。早朝にズボンだけピンポイントに汚れるなんてことはあり得るのだろうか。
 お茶を零したとか? あるいは掃除に気合いが入り過ぎて埃だらけになったとか?
 後者はたぶん上半身も汚れるだろう。前者は――亮の場合ならそのまま穿いて行きそうな気がする。
 なら何をどう汚したのだろう。
 僕はずっと小さくなった親友の背中を追いかけることにした。

 彼が向かったのはランドリールーム。早朝であるため利用する生徒の姿はひとりもない。僕は亮に見付からないよう、出入り口付近の壁に背を付け、そこから中を覗き込む。
 亮は僕に背を向けながら洗濯機の前でズボンを広げていた。その体勢でいること数十秒。ふう、と悩ましげな溜め息を吐いたかと思えば踵を返す。僕は慌てて身を引っ込めた。
 ――何もない。よかった気付かれてはいないようだ。
 僕はもう一度中を覗き込む。すると今度は近くの洗面台の中にズボンを突っ込んで手洗いを始めていた。へぇ――洗濯する前に洗う主義なのか。マメだなぁ。亮らしいや。
 亮の意外にも家庭的な一面を垣間見て感心する。彼の手元をもっと見ていたくて、もう少し身を乗り出して中の様子を窺う。

「……ぇ……?」

 うっかり声に出しても気付かれなかった僕をどうか褒めて欲しい。慌てて引っ込め、乱れた呼吸を宥める。
 首を伸ばしたことでより広範囲に見えた洗面台の模様。ズボンを洗う亮の手元は、さっきから執拗に一点だけを揉み続けていた。

 指の間からチラリと覗く――赤。

 青色のズボンを侵蝕するそれは、臀部にあたる位置で小さくシミになっていた。
 嘘だろう。僕はこの光景に覚えがある。でもアレは男である亮はならないはずだ。
 何故ならそれと同じことは、妹の明日香がしていたから。
 いやまさかそんな。亮は男だ。胸は平たいし、喉仏はあるし、声なんか僕より低いし、一人称は俺だし、身体は角張っているし、お尻は小さいし肩幅は広いし手は大きいし骨張ってるし――
 何より、彼の股間には僕と同じ物が付いている。
 だから亮は、紛うことなき男なのだ。
 可能性があるとすれば切れ痔が酷くてうっかり大量出血してしまい、その結果ズボンを汚してしまったのだ。そうだ間違いない。
 僕はランドリールームを離れて寮を出た。
 一限が終わったら薬局へ寄ってボラ●ノールを買って持って行ってあげよう。亮ってば、どんなに調子が悪くても薬に頼ろうとしないから。何なら、僕が塗ってあげてもいい。トイレのときの辛さは僕もよく解るから、今日はうんと労ってあげよう。
 でも――

 僕の部屋で見せた真っ青な顔色と下腹部を押さえる手元が、脳裏をちらついて離れない。

 あり得ない。
 あり得ない。

 あり得るはずがない。