ダ・カーポ

古妖精病メランコリア〟という病気がある。

 この街は化石燃料を主なインフラ資源として稼働している。火をおこすのも電気をつけるのも、生活に必要なものはすべてその化石燃料が賄っていた。そのため、この街は常に蒸気が絶えない。
 この街に住む人はみな孤独だ。友達なんていないし、そもそも必要以上に他人と関わろうとしない。常に自分のことで精いっぱいなのだ。
 あるいは、この街を静かに蝕んでいる病のせいか。

古妖精病メランコリア〟という病気がある。
 この病気に罹った者は〝最も心に依存している人〟を忘れてしまう。原因はこの街を支えている化石燃料だが治療法は見つかっておらず、命に関わるものではないからと、対策はあまり取られていない。
 そのせいなのか、この街は、沢山の人で賑わっていてもどこかよそよそしく、冷たかった。

   ◆

 密集した廃墟の様な通りを抜け、比較的蒸気の少ない街はずれの一軒家に向かう。両手いっぱいの楽譜は胸に押し込められており、早く友人に聴かせてやりたいと、逸る気持ちのままアマデウスは急ぐ。
 通りを抜けると、市街を避けるようにしてその家は建っていた。微かに聴こえてくる柔らかなピアノの旋律にアマデウスの顔は綻ぶ。道なりに真っ直ぐ扉に近付いたかと思えば、くるりと向きを変え音源に最も近い窓へ向かった。
「やあ、ピアノが弾けるなんて珍しいね」
 窓から顔を出し、余りにも使い古し過ぎた挨拶をそのピアノ奏者に掛けた。
 見知った白い髪の男はアマデウスを見るなり目を丸くしていた。手慰み程度の演奏にわざわざ声を掛ける変わり者がいるとは思わなかったのだろう。
「聴いていたのか?」
「もちろん。ボク以外にこの街で音楽を嗜んでる奴なんていないと思っていたからね」
 男の目に光が差す。
「まさか、君も?」
「そうだよ。ねえ、よかったら中に入れてくれないかな?」
 キミと話がしたいんだ。
 アマデウスはにっこりと微笑みながら、幾度となく繰り返した自己紹介をした。

 男――サリエリは〝古妖精病メランコリア〟患者だ。一か月程前、市街に張り巡らされている蒸気パイプが破裂し、その煙を大量に被ってしまったことで発症した。一緒に行動していたアマデウスは、たまたま建物の中に入っていたため被害を受けなかったが、何たる皮肉だろう。
 サリエリはとても人情味に溢れた街の変わり者だった。困っている者には手を、泣いている者にはハンカチを差し伸べるような、そんな性格の男。この街では不要とされる温かい感情を、人に寄り添う心を持った奇異な人。けれど音楽にだけは一切の妥協を許さない、アマデウスと同じ音楽狂い。
 そんなサリエリが〝古妖精病メランコリア〟を患い、あろうことかアマデウスを忘れてしまった。「音楽以外はクズだ」と度々口にしてはいつも説教ばかりしていたアマデウスのことを、彼は何もかも忘れてしまったのだ。
 アマデウスに聴かせた音楽を。アマデウスの手から聴いた音楽を。
 アマデウスが齎した一切の記憶を、サリエリは失ったのだ。
「モーツァルト……だったか? 君も音楽をやっていると言っていたが、もしかしてその手の楽譜は君が?」
 ピアノの傍で談笑しながらサリエリは興味ありげに指摘する。
「そうだよ。ついこの間完成したばかりでね、何なら聴かせてやってもいいけど」
「本当か!?」
 その楽譜はアマデウスがサリエリと初めて会ったとき、たまたま完成してたまたま持っていたもの。あの日もこうして目の前で披露しては嵐のような称賛を受けたのだ。
 過去を懐かしみつつ、けれど決してそれを表には出さず、アマデウスはその楽譜を手に取りピアノに向かう。あの日はこんな風に弾いていたかな、などと思いを巡らせ、細い指は鍵盤の上を踊った。
 演奏が終わり、僅かに身体を弛緩させながら手を離す。がたん、と椅子が倒れる音と共にぱちぱちと大きな拍手が響く。鍵盤に目を落としながらその先を待っていると、予想通りの声が飛んできた。
「素晴らしい! 星の煌めきが目に浮かぶようだ!……いや、むしろ初恋を捧げるような感じだろうか。とにかく――」
 全く同じ挨拶に、全く同じ曲に、全く同じ演奏。
 そして全く同じ称賛。
 アマデウスはサリエリの知らないところで〝出会いの日〟を繰り返していた。
「――ああ、だが……」
 けれど今日は、サリエリの言葉が途切れた。息を呑む音が聞こえてアマデウスは振り返る。先程までご褒美を待つ少年のように輝かせていた彼の表情は何故か悲痛に歪み、真っ赤な双眸からは大粒の涙を滴らせていた。
 ずる、と鼻を啜っている。アマデウスは目を僅かに見開いた。
「だが……どうしてだろう……。この曲は、前にも聴いた気がする……。君と同じ優しい旋律で、まるで、私に向けられているかのような……」
 サリエリは胸を押さえ泣いていた。苦しいと言わんばかりに肩を震わせ無様にしゃくり上げている。
 次第に彼は両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちた。肩の震えが酷くなる。
「そうだ……ああそうだ……この曲は何度も聴いていたはずだ……。初めて聴いたその後に編曲され……私に向けて〝彼〟は演奏してくれた……!」
 ああ、今日は早かったな。
 アマデウスの瞳は次第に冷静さを取り戻してゆく。これまでの楽しいひとときが、絶望の逢瀬へと変貌を遂げた。泣きじゃくるサリエリをいっそ冷徹ともとれる眼差しで見下ろす。アマデウスはピアノ椅子から静かに立ち上がった。無言で彼の横を通り過ぎようとすると、ズボンを引っ張られる感覚がして立ち止まった。
「……待ってくれ」
 涙に濡れたサリエリの声がする。表情は、項垂れていてよく判らない。
 アマデウスは無言を貫いた。
「君なのか……? あの日に聴いた曲は君が、奏でてくれたのか?」
「あの日っていつのことだよ」
「わからない……。あの日とは、いつのことなのだ……?」
 布を掴む力が強くなる。彼は譫言のように「わからない」「思い出せない」「どうして」を繰り返していた。
 徐にアマデウスはしゃがんだ。震えるサリエリの手に自身の掌を重ね、ゆっくりと外す。そして耳元に顔を近づけるとこう言った。
「明日また来るね」と。

 サリエリの家を後にしたアマデウスは楽譜を忘れていることに気が付いた。しかし今戻れば、混乱状態のサリエリに今度こそ引き留められてしまうだろう。そこまで考えて、引き返すのを止めた。
 幾度となく繰り返されるこのやり取り。何度「はじめまして」を言い、何度同じ曲を奏で、何度残酷すぎる事実を突きつけただろう。すぐに飽きて彼を見限るだろうと思っていたが、どうしてか未だに続いている。
 彼はアマデウスのことを忘れて絶望しても、何ひとつ変わらなかった。同じように自分の曲を褒め、自分のだらしなさを指摘して、自分と音楽の話に花を咲かせる。
 そして彼は、何度忘れようともアマデウスの音楽を耳にすればほんの少しでも思い出してしまうのだ。自分が奏でた音楽の数々と、それが齎した彼のアマデウスに対する想いを。それは〝古妖精病メランコリア〟では及び切らない場所で記憶しているものがあるからなのか。身体が、耳が、心が憶えているとでも言うのだろうか。医療に明るくないアマデウスでは判らなかった。
 夜が明ければ、サリエリは再びアマデウスを忘れ、アマデウスは再びサリエリの許を訪れるだろう。何度忘れ去ってもサリエリがアマデウスを思い出そうとする限り、この不毛とも言える逢瀬に終わりはない。
 堆く積まれた瓦礫のような街並みを陰鬱な忘却の霧が覆う。
 けれどその隙間から除く空は忌々しいほどに青く清々しかった。