親友が死んだ。
いつもみたいに息子をレッスンに送り出した後、一息つこうと棚からティーセットを取り出した正にその瞬間のこと。さっき出て行ったばかりの息子が血相を変えて帰宅したと思えば息も絶え絶えに「先生が動かない」なんて言うのだ。
きっと面倒事に巻き込まれたんだろう。そう考えていた僕はしきりに父を連れ出そうとする我が息子の剣幕に半ば辟易とし、とは言えただならぬ様子から流石に無下にすることもできずに渋々ながらも付いて行った。
そこには、真っ赤な血だまりの中で真っ黒なグランドピアノに縋り付く様に突っ伏す真っ白な親友の姿があった。世捨て人みたく締め切られたこの部屋からは噎せ返る程に濃厚な鉄錆臭が充満しており、この惨劇はついさっき起きたものではないのだと、僕は知った。
中に入り親友の元へ近付くと、譜面台に最近書き上げたのだろう楽譜が半分ほど血濡れになったまま立っていることに気が付き、僕はその内容を手に取り、指でなぞる。
それは普段の彼ではまず書かない、とても荒々しく狂った旋律だった。基本ベースは短調だが何度も転調を繰り返して原型を留めておらず、テンポも滅茶苦茶。挙句の果てには可変拍子もフルに使っており、僕の知る限りでは彼史上最高に崩壊した一曲だった。
いつもなら神経質過ぎるほどにお綺麗で型に嵌った曲ばかり書く癖に、こんな時にならないと人間らしい曲が書けないのか。まるで事切れる直前までの苦悩を体現したかの様な仕上がり。僕なんかと親しくなってしまったが為に常に彼の首を絞め続けていた謂れのない中傷の数々を、余す事無く丁寧に拾い上げた末にできた産物。仕上げられてしまったそれは人間の一生が如く狂気に満ちた代物なのに、できあがった経緯を想像するとやはり彼らしい曲だなと思った。
僕はこの楽譜を懐に仕舞うと未だ呆然と立ち尽くしている息子を連れて部屋を後にした。
これは彼が悲鳴を上げながら生きた証として僕が大切に保管しておいてやろう。どうせ他の奴の手に渡ってもこの曲の美しさは判らないだろうし。
だからこの曲は、僕が死ぬまで僕だけが弾き続けてやろう。
僕だけが、君の美しさを知っているのだから。