小鳥の囀りを目覚ましに、サリエリの意識は微睡みまで浮上する。そして瞼の上から朝日を感じ取ると、脳は一日の始まりを告げた。
すぐ脇の下で眠り続けている小さな我が子を起こさぬよう細心の注意を払ってベッドから抜け出すのがサリエリの毎日の試練だ。時刻は六時。彼を起こすにはまだ早い。ふわふわと覚束ない意識を叱咤して寝室を出ると、昨晩まで溜め込んでいた洗濯物を洗濯機の中へ放り込む。普段と変わらない量の洗剤を投入しスイッチを入れれば、その間に歯磨きと洗顔を済ませる。しかしその程度で洗濯が終わる訳がないので、足早にリビングへ移動し軽く着替えを済ませた。ダークグレーのスラックスにジェットブラックのタートルネック。その上にベージュのエプロンを纏う。その時間、約一分。
チラリと壁掛け時計を一瞥した。起床してからまだ三十分しか経っていない。彼を起こすのは七時と決めているため、やはりまだ早い。すぐさま台所へ向かい、朝食の準備を始めた。
食パンを二枚、トースターの中へ放り込む。ジジジ、というモーターの駆動音が聞こえたことを確かめ、お次はコンロの前へ。フライパンを火にかけている間に、冷蔵庫から卵とベーコンをそれぞれふたつずつ取り出す。油を引き十分加熱が確認されたところで、まずはベーコンを投入する。肉の脂が熱で溶け出す匂いが立ち込め、サリエリの腹がぐう、と鳴った。塩胡椒で下味を付けてひっくり返す。現れたきつね色の焼き目。その上にそれぞれ卵を割った。
「……おはよ……」
「ん? ああ、おはよう。起こしてしまったか」
目玉焼きを蒸して仕上げている途中、洗濯機が作業終了を告げた。甲高い音に思わず顔を上げると、それよりも前から調理の音などで眠りを妨げられたらしい我が子がリビングに姿を現した。愛らしいボーイソプラノがワントーン低くなっているところを見るに、ご機嫌斜めのようだ。サリエリはできあがったベーコンエッグを皿に移して我が子――アマデウスの許へ向かい、しゃがんで頭を撫でた。
「五月蠅かっただろう」
「ちがうもん。起きたらパーパがいなくてさびしかった」
「そうかそうか。それはすまなかった」
サリエリの苦笑に、アマデウスの頬が膨らむ。子供扱いしないでよと吐き捨てながら手を振り払い足早に洗面台へ逃げていってしまった。どうやら機嫌は直らなかったらしい。徐に立ち上がって腰に手をつき、笑みを零すように溜め息を吐きながら小さな背中を見送った。
「ねえ、もういっかい言ってよ」
強制的に目覚めさせられたことで急降下した機嫌は、食卓に着いた後も持ち直すことはなかった。
その原因は、サリエリの何気ない留守番のお願いだった。
「すまないが今日は泊まりになる。このところ仕事が立て込んでいてな。夕食は冷蔵庫に入っているから、それを温めればすぐに食べられる。ああそんな顔をしないでくれ。なるべく早く帰るようにするから」
「でも今日はもうもどらないんでしょ? ぼくをおいていくんでしょ?」
やだやだと駄々を捏ねる金髪の天使はその仕草こそ愛らしいものの、状況が状況なだけにサリエリは困り果てていた。極度の寂しがり屋なアマデウスを心配して最初はきちんと退社できるよう仕事を調整していたのだが、昨日入った急な案件に叶わなくなってしまったのだ。なんとかキリをつけようと長めに残業したため、昨晩は大声で泣き付かれてしまったのを思い出す。
やはり駄目かと溜め息を吐く。しかし仕事は仕事だ。養子ではあるが愛する我が子を養うため、多少の我慢をお願いしなくてはならない。
「すまないアマデウス。私もなんとか早く帰れるようにしたのだが、今日はどうしても駄目だったのだ。いい子にお留守番できたら、週末はお前の好きなことをしよう」
「……ほんと?」
じとりとした上目遣いでペリドットがピジョンブラッドを睨む。頑なだった意識が
「どうだ? お留守番していてくれるか?」
ダメ押しと言わんばかりの一言。それを渋々といった表情でアマデウスは徐に首を上下した。
「わかった。やくそくだからね」
「もちろんだとも」
両者合意を得たところでサリエリは冷蔵庫からヨーグルトを二人分とジャムを取り出した。たっぷりのブルーベリージャムを、ヨーグルトの中へそれぞれ入れてゆく。アマデウスの分が少しだけ多めにして。
サリエリに手渡されたヨーグルトをアマデウスはスプーンでゆっくりと掻き混ぜてゆく。白と紫のマーブルが段々と輪郭を失い、鮮やかなパープルグレイに変わった。
◆
休日といえどもサリエリの日課は平日と変わらない。いつも通り六時に起床し、洗濯機を回しながら身支度を済ませて朝食を作る。
そのはずだった。
「おはよ」
時刻は五時五十分。起床には僅かに早い。しかしサリエリの脳はイレギュラーに遭遇したことで覚醒しきっていた。
「あ、ああ。おはよう」
アマデウスが起きている。あの早起きが苦手な我が子が、自分より先に起きている。満面の笑みを浮かべて今にもベッドから引きずり下ろしそうな勢いで詰め寄っている。
サリエリは慌てて飛び起きた。
「ねえやくそく、おぼえてる?」
キラキラと期待に満ちたペリドットがサリエリを見詰める。嗚呼そんなに待ちきれなかったのかと、何故か胸を打たれながらアマデウスの頭を撫でて「ああ覚えているとも」と微笑んだ。
「まずは朝食にしよう」
「うん! はやく食べてぼくのおねがいきいてね!」
「ははっ、わかったわかった」
寝室を出て洗面所へ向かう。歩くサリエリの周りをぴょんぴょん跳ね回る我が子に促されるまま、普段より短い時間で身支度と家事を終えて朝食の席に着いた。今日のメニューはアマデウスのリクエストでフレンチトーストだ。たっぷりのバターとメープルシロップが、トーストの余熱でとろりと蕩け甘美で芳醇な香りが食卓を包む。
食事の時間はいつもより忙しなかった。なによりアマデウス自身が少々急ぎ気味で食べていたからだ。余程待ちきれないのだろう。
「ところでヴォルフィ? 今日はお前の好きなことを目一杯しよう。他には何がしたい?」
互いの皿が空になったタイミングを見計らってサリエリは口を開いた。約束した通り、今日はアマデウスの望みを何でも叶える日だ。そのために昨日は退勤中に様々なテーマパークやレジャー施設をリサーチしていた。レストランやショッピングモールのイベント情報なども、もちろんチェック済みである。アマデウスは聞き分けのいい子だが子供らしい欲もきっちり持っているので、まさかフレンチトーストを作った程度で終わる訳がないだろう。
「うん! あのね……」
両手で愛らしくマグカップに口を付けていたアマデウスが牛乳を飲み終えると勢いよく椅子から飛び降りた。焦ったサリエリが立ち上がり注意するも構わず寝室へ走って行ってしまう。
暫くして戻ってくると、その手に持っている紙製の化粧箱にサリエリはぎょっと青ざめた。
「ヴォ、ヴォルフィ……その箱は一体どこから……」
「パーパのクローゼットから出てきたの! ねぇぼくコレでいっぱいあそびたいなぁ!」
余りにもお粗末な質問を投げたにも関わらず、アマデウスはワクワクした表情で律儀にも答えてくれた。それはサリエリにとってある意味人間の尊厳が消失した瞬間だった。だらだらと背中を流れる冷や汗が止まらない。まるで少年時代に拾ったいかがわしい雑誌をベッドの下に隠していたが母親にバレてしまったような、そんなのっぴきならない焦りだ。サリエリにそんな経験はないのだが。
しかしアマデウスが手にしている箱はグラビア雑誌などという生温いものではない。
常に日陰に身を潜めていなければ、その存在が知れた瞬間に信頼が撃沈する程に危険なもの。
そのため入手には細心の注意を払い、同時に保管場所にも気を遣わなければならないもの。
しかしそれがあることによって、身も心も最上の悦びを味わうことができる魅惑の一品。
「えーい!」
「ああっ!」
――ガラガラ!
アダルトグッズだった。
「あ……あ……」
いけない。これはとてもいけない。サリエリの膝が笑い出した。
愛らしい天使のような我が子が、一番手にしてはいけない物を手にしている。床の上で勢いよく広げられたそれらは見覚えのあるものばかり。中には昨晩風呂場で使ったものも混じっている。
何故この子が。いつの間に見つけていたのだろう。
恐らくだが、先日の泊まり業務の日には既に知られていたのだろう。
サリエリは力なく着席した。
「ねぇパーパ、あそんでくれないの?」
キラキラと無垢な宝石が填め込まれたかんばせがコテンと傾げられる。やめてくれ。そんな目で私を見るな。サリエリは叫びたくなった。
まるで首筋に刃を突き立てられているような感覚だ。年端も行かぬ子に自身の生殺与奪の権を握られている。このまま無言を決め込んでも、それだけはと固辞してもいい結果にはならないだろう。むしろ取り返しのつかない事態になる。その日どころか、今後一切ろくに口をきいてくれなくなるかも知れない。それだけはどうしても避けたい。
つまりアマデウスの要求を呑むしか、選択肢は残されていなかった。
「……わかった、一緒に遊ぼう」
「わーい! パーパだいすき!」
無邪気にはしゃぐ天使の顔。普段ならこの上なく愛らしい表情に胸が一杯になるのだが、状況が状況なだけにそうはならなかった。
もうなるようになってしまえと、脳が匙を投げだす。ぐるぐると忙しなく巡らせた思考が導き出した結論がそれだ。
まだ足に力が入りにくいがなんとか腰を上げ、アマデウスの前にしゃがむ。広げた玩具達を箱にしまい、寝室へ持っていくよう促す。どうやって上手く躱しながら遊ぼうか。新たに浮上した問題に段々頭痛がしてきた。
ともあれ衝撃的な光景を目にした後、徐々に冷静な思考を取り戻し始めたサリエリの脳内では実に楽観的な言葉を浮かべていた。何故ならサリエリの所持するアダルトグッズの中に直接的な形状のものはひとつもないからだ。
一度思えば実に小さなアクシデントのように感じるのは必定。つまり大して面白いものでもないという印象を持たせてしまえばこっちのものなのだ。
子供は飽きるのが早い。彼らには必要ないものなら尚更。
サリエリは寝室の扉を開けながら、内心で溜め息を吐く。
子供に大人の玩具の使い方など解る訳がないだろう、と。