サリエリには、付き合って一年になる彼氏がいる。
もちろん僕ではない。僕はただの幼馴染みの同居人だ。ゲイである彼と同じ性別だけれど特に何もない。あまりにもだらしない僕の生活ぶりを見兼ねて彼が出入りを続けた結果、共に生活するようになっただけなのだ。
サリエリはとても世話焼きで甘やかしたがりだ。
僕との生活において、彼は進んで家事をする。掃除洗濯はもちろん、食事の世話までこなすのだ。
多分だけれど、毎日家庭に追われてる母親並みに働き者なのではないか。お陰で僕自身は、家のことを全くしなくなってしまった。
サリエリには、付き合って一年になる彼氏がいる。
そいつとの馴れ初めは、聞いたけれど昔のことなので忘れてしまった。
けれどあのとき、サリエリは照れ臭そうに笑いながら「自分の髪を美しいと褒めてくれた」と言っていた。そのことは、未だ鮮明に覚えている。
サリエリの髪は、奴と付き合いだす前から長かった。それは肩甲骨を覆うほどで、毛先は緩くウェーブがかっている。色は深い陰影を刻むプラチナのようで、受ける光によって色味が変わり煌めく姿が美しい。
僕も彼の髪はとても好きだ。
サリエリの髪は、男と付き合うようになって更に艶を増した。家のバスルームには種類豊富なトリートメントが並び、ドライヤーはこれまで使っていたものよりワンランク高価なものに変わった。まるで恋する少女のように、念入りに手入れした毛先に触れては満足げにはにかむ。
サリエリから、今日は記念日なのだと教えられた。付き合い始めて一年という節目の日。
それはとても嬉しいことだと言っていた。
身支度は、前日からいつも以上に時間をかけて髪を手入れをするところから始まり、当日は普段以上に手間をかけて髪を結う。記念日に相応しくなるようダークグレーのチェスターコートを纏い、小さくも高価そうなプレゼントを持つ。これで完成だ。
そしていざ出掛ようかというとき、彼は徐に振り向き、緊張のせいか赤い瞳を彷徨わせながら「今日は遅くなるから」と言った。
「わかってる。最高の記念日にしてきなよ」
「ああ、ありがとう。……では、行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」
僕はコートの襟から覗くクリムゾンのタートルネックから、目が離せなかった。
サリエリが出掛けてから五時間が経過した。
日付はもうすぐ変わりそうな頃合いで、しかし未だ帰宅する気配はない。普段ならとっくに眠っている時間帯なのに、どうしてか僕の目は冴えていた。全く眠る気になれず、手持ち無沙汰なままスマートフォンを操作する。
あと十分で日付が変わる。何度も時計に視線を移しては、その度に時間があまり進んでいないことに落胆する。スマートフォンでトップニュースを読んでいても、画面上部に小さく映る数字が気になり、内容が頭に入らない。
「……ああもう!」
遂に堪らなくなりニュースアプリを閉じる。アドレス帳を立ち上げ、目当ての連絡先を探し、通話アイコンをタップした。
コール音が続く。普段なら三コール程度ですぐに出るはずの人物は、六コールを超えても反応がなかった。
『おかけになった電話をお呼びしましたがお出になりません』
アナウンスが聞こえ、一度通話を切る。五分ほど待ち、もう一度かけなおす。
『おかけになった電話をお呼びしましたがお出になりません』
切る。再びかけなおす。
『おかけになった電話を――』
今度はアナウンスが聞き終わる前に切った。がっくりと肩を落とし、壁にかかった時計を眺める。
日付はとうに変わっていた。サリエリがどこまで行っているのか知らないが、駅周辺ならもうすぐ終電になる頃だろう。
それなら、今は電車の中なのだろうか。だから何度かけても出てくれないのか。
いや、たぶん違う。普段のサリエリなら、電話に出られなければ必ずメッセージアプリで返事をしてくれるはずだ。その気配が全くない、となると――
身体が強張り、震えた。
ずっと急いていた心が今、はっきりとした不安を象り襲いかかる。
――迎えに行かないと。
でも――どこへ?
どうやって?
半ば脅迫されているかのように迎えの手段を必死に模索する。けれど運転免許も無ければ行き先も知らない僕には、どうしようもできなかった。
――プルルルル。プルルルル。
「……ッ⁉」
不意に着信音が鳴り、肩が跳ねた。恐る恐る画面を覗き込むと、知らない番号からだった。
「……はい」
『ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトさんですか?』
「はい、そうですけど」
『突然の電話ですいません。私は○○交番の△△という者なんですが――』
言われた住所までタクシーを使い走って行く。中に入ると、ずっと連絡が取れなかった同居人が奥のソファに座っているのが見えた。
「サリエリっ!」
呼ばれたサリエリは、無言のまま深く項垂れていた。彼のあんまりな姿を目にした僕は、すぐ傍にお巡りさんが立っているのも構わず駆け寄る。膝を付き、彼の頭に手を伸ばす。が――
――バシン!
音から少し遅れて、僕の手がじんわりと熱を帯びてゆくのを感じた。
沈黙する時間。
ほんの僅かだけ冷静さを取り戻した僕は、改めて彼の姿に目をやる。
それは酷いありさまだった。
コートのボタンは幾つか消え、ところどころ土と傷で色褪せている。
中に着ていたタートルネックは同じく土と傷に塗れ、そして強く引っ張ったのか、首元と袖口がよれている。
スラックスも靴も同じ状況で傷だらけ。それらはたった数時間でなる損傷ではない。
思わず眉間に力が籠る。
視線を徐々に上げてゆくと、そこは一段と悲惨な光景が広がっていた。
――肩甲骨まであったはずの髪が無くなっている。
ざんばらで、酷く不揃いになった毛先。
自分の意思で切ったものの訳がなかった。
鋏の跡がくっきりと残るお粗末な切り口。
それは束を鷲掴み、一息に刃を入れたことで付いたのだろう。
永い時間をかけて欠かさず手入れしてきた――プラチナの美しい髪が。
今や灰色にくすみ、無惨にも傷痕を残して荒れてしまっている。
ハーフアップにしていたリボンなど、どこにもない。
奴か。
奴がやったのか。
屈んだ膝の上に置いた拳が硬くなってゆく。
ブツリ、という音と共に掌がぬめりだした。
「あの……身元引き渡しの手続きを始めてもいいですか?」
さっきから無言で立ちっぱなしの気弱そうなお巡りさんが、痺れを切らして声をかけてきた。僕は無言で立ち上がり、くるりと踵を返す。
事の経緯を大まかに聞き、簡単な質問に答え、書類にサインすると、特に何もなく解放された。
「サリエリ……帰ろう」
今度は肩に手をやり、なるべく髪には触れないようにする。
拒絶はされなかった。
「気を付けてお帰り下さい」
けれど、何も言わないままだった。
あの事件の後、サリエリは彼氏と別れた。
理由は何も聞いていない。ああいうことは、本人自ら語らなければ傷つけてしまうと思ったから、敢えて聞き出そうとはしなかった。
けれど、なんとなくだが、あの日無惨に切り刻まれた髪が、奴と別れる原因なのだろうなと、僕は思う。
事件から今日で半年が経つ。
僕とサリエリは変わらず同居を続け、外見上はこれまで通りの日常を送っている。
生活能力のない僕に代わり、家事全般をこなすサリエリ。
今はメニューを考えるために冷蔵庫の中身を確認している。
その背中で揺れるハーフアップの髪は――
短いままだった。