「腹を括れ」

 僕は今、絶体絶命の窮地に立っている。

 僅かなシミのひとつすら許されない真っ白な部屋の中。これまた真っ白なベッドの上で仰向けにされた僕の腹の上には、部屋の主である親友兼恋人の亮が乗っていた。
 つまりは馬乗り。おかげで僕はちっとも身動きがとれない。
 この状況を作ったのは他ならぬ亮である。彼は病人なくせに、僕が冗談で口にした卒業祝いを実行しようとしているのだ。
 それも、顔色ひとつ変えずに。
「わかった」と言って胸ぐらを掴まれた瞬間に、僕はまずいと思った。慌てて冗談であることを強調するも、伸ばされた腕が引っ込むことはなかった。
 そして病人にあるまじき力でベッドに引きずり込まれた僕は、亮の鮮やかな手捌きによってあれよあれよという間に転がされ、今に至る。
 膠着状態が続いてどれくらい経っただろう。普段亮を見上げることなんて滅多にないから新鮮なアングルである。それに病院着を纏っているから白い胸元が僅かに覗いていて絶景――もとい、目に毒だ。
 これがもう少し扇情的な顔をしてくれたらなぁ。
 ――ちがう。僕は何を考えているんだ。亮は病人なんだぞ。
「あの、さ……亮? さっきから冗談だって言ってるじゃないか。今度はちゃんと正式なプレゼントを考えておくから……だから……」
 悪かったよ、と続ける自分の声に情けなさを覚えた。明日香に叱られたときよりも覇気がない気がする。
 これではプレゼントの体を成していない。最早拷問である。このまま襲いたい獣心と、病人の身体を労らねばという自制心とが鍔迫り合いをしている。
 どうしよう。早く退いてほしい。でなければ浮沈を繰り返す天秤が、獣の皿の方に傾いてしまう。本人は気にしないかも知れないが、後で翔君と顔を合わせたときにいたたまれなくなるのだ。他ならない僕が。
 視線が定まらない。さっきから亮の顎と胸元と、その向こうの壁とをずっと行き来している。開放的すぎるこの病室に、僕の居場所はどこにもなかった。

「なんだ、しないのか」

 不意に平淡なテノールが飛んできて、僕の肩が跳ねた。ひゃい!? なんて素っ頓狂な声を上げてようよう顔へ視線をやると、見慣れた仏頂面と目が合う。
「いやぁ……だって……」
 それが僕と愛を育もうとする人間の顔だろうか。温度差で風邪を引いてしまいそうになる。

(……あれ?)

 そもそも彼は〝愛を育む〟ことの意味をきちんと理解しているのだろうか。
 デュエル以外の事柄について少し鈍感な気質があるのを思い出し、僕は言いようのない不安に駆られた。
「亮ってさ、言葉の意味、わかってる?」
「当たり前だろう。十分な体制じゃないか。これでお互いに服を脱ぎ去ってしまえば完璧だな」
 なんとまあ、あっけらかんと。
 僕と離れていた二年の間に、亮はすっかり大人の仲間入りを果たしていたらしい。変化を実感する一方で、なんだか大切なものを汚されたような気分にもなって複雑だった。
 僕は宝物は大事にしたい主義だ。そのひとつである亮には、どうあっても苦しい思いしはして欲しくない。
「だったらさ、僕の態度もわかるだろう? 今は元気でも、君は病人なんだ。退院してからでも遅くないから、今日のところは――」
「いい加減にしろ」
 そんな老婆心から発した何度目かの固辞は、僅かな怒気を孕んだ亮の声によってまたしても遮られた。
 純粋な怒りとするにはあまりにも微弱な変化だ。けれど旧知の仲である僕にはその変化を感じ取ることができる。
 小さくささくれ立った感情。見た目より繊細な心には、ピリ辛の怒りにほんのりと甘い悲しみが広がっていた。
「亮……」
 これ以上、僕は愛しい人の気持ちを踏みにじることはできない。
 亮は自身の前髪で顔を隠した。けれどその時間はごく僅かで、すぐに顔を上げて僕の瞳を射貫くように睨む。

「吹雪、俺が学園を卒業してもうすぐ二年になる。それまで顔を合わせたのはたった一度だ。俺とお前の関係はなんだ。あの日、お前が誓うと言った関係を反故にする気か。お前の提唱する愛とはその程度のものだったのか。お前は気付いていないかも知れないが、俺達はまだ、恋人とやらに相応しい行為を一度もしていない」

 鷹のような眼差しが、僕という獲物を捕らえて言い放った。

「……どれだけ待ったと思っている」