COLLAPSE - 4/4

 革命とは、前触れもなく降りかかる災害のようなものだ。
 水面下で周到に計画を練り、同志を集め、思想を固めたものを、然るべき時期に雨の如く降らす。それを正確に予測して対処できる者は、アーデン島のどこを探しても存在しないだろう。
 かつてその雨を受けたことのある私は、闇夜を切り取る窓を眺めながら、部屋の向こうで大きくなっていく喧騒に耳を傾けていた。
 あの日、過去の記憶に苛まれ続ける悪夢から覚めた後、西部の軍隊が聖都へ詰めかけていたことを思い出す。戦火の兆しに気付けなかったのは、私が愚かであったことの他に、その首魁であるカーティスが相当な策士であったからだろう。
 それが今や、彼は革命の標的として臣下の手に掛かってしまった。人ではないから死なないだろうが、その苦しみようは凄まじく、むしろ事切れてしまった方が楽ではないかと思わせるほどだった。
 床を転げ回る彼を、私はただ眺めることしかできなかった。彼の眷属である私には、彼からの施しを受けることはあっても、彼の命を繋ぐ力がない。名前を叫んでその肩を揺さぶっても目覚めず、自らの唾液を口移ししても、手首を切って血を飲ませても、衰弱していく彼の活力になることはなかった。
 彼が動かなくなると、私は誰に助けを求めるでもなく、彼の傍らで座り込み続けている。ワイン色の髪に触れても反応を示さない彼を、焦点の抜け落ちた視線でぼんやりと見下ろす。ノイズ染みた喧騒が少しずつ大きくなっていき、もうじき連中の暴動が部屋の扉を破るだろうと予感する。
「随分と呆気ない幕引きでしたね」
 しかし強烈な破壊音の代わりに聞こえたのは、神経を逆撫でするような男の声だった。既視感がある。
「……ジュドー……」
 重たい頭を上げると、扉の前には悪魔が立っていた。
 悪魔は私と目が合うと、酷薄な笑みを浮かべて「お久しぶりです」と一礼した。
「主の精を貪る日々は如何でしたか?」
 ゆっくりと、優雅な足取りで近付いてくる。
 そういえば概念の存在であるはずの奴が、どうして足音を立てることができるのだろう。
「何か言いたげな顔ですね。私が実体を持っていることがそんなに不思議ですか? かつてはあんなに死闘を繰り返したというのに?」
「それは、貴様のコアが砕かれる前だったからだろう」
「ええ、ですから、私のコアは修復されたんですよ」
「……え、」
 悪魔の歩みが止まる。カーティスの前に立ち、その爪先で私の顎を押し上げる。強制的に上向かされた私の視界は、悪魔の相好に支配された。私の何を見ているのか、奴の表情が愉快げに歪む。
「随分と美味しい思いをしたようですねぇ。清廉とは程遠い匂いがここまで漂って来てますよ」
 値踏みするような視線が全身に纏わり付く。何の匂いかなど問うまでもなく、淫蕩に耽っていた日々のことを指摘しているのだろうと察せられた。
 まるで、獣の本能に抗えなかったじゃくな意思を嗤われているかのようだ。ぎりりと奥歯が鳴る。
「そんな顔をしたって仕方ないでしょう。アナタの身体は、あるじの精を糧にしなければ飢えてしまうのですから」
 悪魔の口角が更に吊り上がっていく。
「恥じ入る必要などないじゃないですか。例えば、虫は生きるために花の蜜を糧とする種もいれば、同じ虫を喰らって生きる種もいる。中には、獲物の体内から特定の養分だけを吸い上げて生きる種もいます」
 甘さを含んだ言葉が私の耳朶に入り込み、毒のように全身を締め上げる。息が、心臓が苦しくて、力の入らない腕を伸ばして暴れる胸を探る。湿り気を帯びる皮膚の上から、鼓動の源泉を掴むように押さえた。
「虫の例だけでも、限られた養分でなければ生きられない種がかずおおくいます。が、それに比べて人間はたいへん雑食です。時には娯楽すら含んだ理由であらゆる生物を屠り、自らの血肉としています」
 痛みの原因は明白で、私の中に残る奴の破片が反応しているのだ。
「生き汚さで言えば随一だと思いませんか? しかし……」
 悪魔は、小さく喘ぐ私を見下ろしながら徐に身を屈めた。見透かすような闇色の双眸が私の視線を縛っている間に、私の下腹部をそろりと撫でる。
「……ぁ、っ……」
 じわ、と熱を帯びていく。弱味を見せまいとする私の意識を置き去りに、身体は性の予感に歓喜するかのように疼いた。
「人間は、悪食でありながら、どうしてか食べ方・・・に拘ります。生命維持に上品さを求めたところで腹の足しになどならないというのに、どうしてでしょうね?」
「は、ぁ……ん……やめ……ッ」
「理由は簡単です。欲深い人間が本能のままに貪れば、手に負えなくなるからですよ。ホラ、こうやって少し撫でてやるだけでも……もう欲しくて堪らないんじゃないですか?」
「ゃ、あっ、はぁ……うぅ……」
 ゾクゾクと震える身体を叱咤して首を振る。声が漏れ出そうになると反射的に唇を噛んだ。私の反応は悪魔にとって愉快なものらしく、より焚き付けようとするかのように全身を撫で回し始めた。ぞわりと粟立つ肌、擽ったさと焦れったさの境界がわからず、堪らなくなって悪魔の腕を掴んで静止させる。
 すると悪魔の顔が、鼻先が触れそうなほど接近してきた。小さな恐怖に息を呑んで身を引くが、腕を掴んでいてはろくに逃げられない。
「悪魔に理性はありません。他の生物と同じく本能に従って行動します。そもそも理性・・という二律背反の行動原理を生む思考自体、人間にしかない特有のものだ」
「……ッ」
「ですから人間であるアナタは今、苦しんでいるのです。本能で生きる存在となったはずが、中途半端に人間の性質を残してしまったせいで」
 悪魔の手が、全身を這い回る。柔らかな声音で「もういいでしょう」と囁きながら、私の背中に温もりを落とす。
「もう人間の理に葛藤する必要はないのですよ。アナタが精を求めるのは生きるため。謂わば食事です。人間だって毎日食事をするでしょう? それと同じことじゃないですか」
 人肌の温度が広がっていく。悪魔の温もりによって、私の視界がぼやけて滲んだ。輪郭を溶かしながら色を混ぜ、熱い雫となってぼろりと溢れた。
 悪魔の腕に包まれていると、胸の痛みが引いていく。
「彼に悪魔の力を齎した根源である私ならば、アナタの飢餓を消すことができる。私だけが、飢え続けるアナタのココを満たすことができる……」
「んっ……はぁ、ぁぁ……♡」
 いとも容易く懐へ入り込んだ言葉は、瞬く間に本能の核へと触れた。ゆっくりと下腹部を加圧されていき、その甘美な刺激に体内の虚がびくんと蠢く。かつてカーティスの手によって絶頂させられた感覚を思い出し、期待に腰が揺れる。
 固く引き結んでいた唇が解けていく。綻びから湿り気を帯びた吐息を零した瞬間――
「んんっ!? ふ、ぅんん……」
 悪魔の唇が重なった。
 瞬きの間の出来事だった。咄嗟に引っ込めようとした舌を捕らえられ、蛇の如きしなやかさで絡み付く。くちゅくちゅと音を立てて蹂躙する動きに強引さはなく、導くような優しさによって理性が溶けていくのがわかった。
 悪魔の――主の施しがもっと欲しい。
 底の抜けた壺のようなこの腹を、彼の精によって満たして欲しい。
 果肉りせいが腐り落ちて残ったほんのうは、呆れるほど単純な形をしていた。
「ふふ……たくさん欲しいですか?」
「……ふ、ぁ♡……ほし、ぃ……ずっ、とぉ……くるし、かった、からぁ……♡♡」
 ――ジュドーカーティス
 ただ精を強請るだけの存在に成り下がった私は、どちらの名前を口にしただろうか。
 あるいは、そもそも名前すら口にしなかったかも知れない。
 しかし私に触れてくれる彼こそが救世主だと、本能は理解していた。私は下手くそなキスを繰り返しながら、あるじに抱きつく。

「ええ、いっぱい差し上げますよ。そしてうんと孕んでください。人間に滅ぼされた我が同胞達を、アナタのなかでたくさん産み落としてくださいね……」

 彼の言葉の意味はわからなかったが、私の耳には救いの言葉のように聞こえた。