蝋の翼 ※R18 - 7/7

 病院に辿り着くと、医師は直ぐさま私を担架に寝かせ、手術室へ連れて行った。
 途中で何か言われた気がしたが、体力も限界だった私は何も聞き取ることができなかった。
 ただ、その表情が酷く険しかったのは、今でもよく覚えている。
 麻酔を打たれ、意識を手放してから目が覚めるまでの約一時間は、これまで経験したどの一時間よりも、あっという間で、重いと感じるものだった。
 手術は無事成功したらしい。
 破水後、急激な運動をしたにも関わらず、子どもは特に障害もなく産まれてくれたのだ。
 母体である私自身は、借り腹に幾つかの小さな傷が入っていたらしい。が、臓器とは違うため、さしたる問題にはならなかった。
 目が覚めると誰もいなかった。
 看護師が満面の笑みで「元気な男の子が産まれましたよ」と子どもを抱かせてくれたが、手放しで喜ぶ気にはどうしてもなれなかった。
 出産を終えて暫くは、開腹の痛みにのた打ち回りながら息子の世話をした。
 その度に問うた、彼の安否。
 しかしその度に、はぐらかされ続けた答え。
 きっと――多分、そういうことなのだろう。
 答え合わせの時は意外と早く訪れた。
 痛みも落ち着き、病院の中ならそれなりに出歩けるようになった頃、主治医が部屋に現れると、私は瞬時に悟った。
「お前に見せなくちゃならないものがある。付いて来い」
 低く、噛み締めるようにそう言った彼。
 私は、まるで裁判を受ける囚人のように、じっとその後ろを歩いた。
 地下に下り、明かりの届き辛い奥の部屋へ向かう。鉄扉が重く開かれると、中へ招かれた。
 真っ白で、棺のようなベッドと祭壇だけの、何もない部屋だった。
 彼はそこで、十字架を頭上に掲げて〝眠っていた〟のだ。
 いいや違う。現実から目を逸らしてはいけない。
 彼は――彼はそこで、十字架に見下ろされながら〝死んでいた〟のだった。
 よろよろと、鉛を飲んだかのように覚束ない足取りで、彼の許へ向かった気がする。
 だがそこで何を思い、どんな言葉をかけたのかは、どうにも朧気で思い出せない。
 唯一覚えているのは、生の世界の出口のようなあの部屋が濡れてゆく光景。
 それだけだった。

 風が吹く。
 それに引っ張られるようにして草が、木の枝が静かに騒めく。
 厚く、沈みそうな雲。
 そして、等間隔に並べられた整形石。
 この場所には色という色が殆ど存在しない。
 私と、その傍らで寄り添うようにして立つ小柄な星は、同じ物体を違う想いで、整列された中のひとつを眺めていた。
 その石には、彼の名前が刻まれている。
 そしてこれを目にするのは、今日で五度目だった。
「マーマ……はやくかえりたい」
 不意にスラックスを引かれる感覚にハッとする。
 慌てて視線を動かすと、息子が飽きたと言わんばかりにぐずりだしていた。
「ああ、すまないな」
 抱き上げ、その背を撫でてやる。
 すると、暫くもしない内に寝息が聞こえてきた。
「…………」
 もう一度、彼の石に目を遣る。
 いつも、ここへ来る前は色々と言いたいことが出てくるのに、いざこれを前にすると微塵も出てこない。一時期は思いつく度に書き留めていたが、面倒になって辞めた。
 腕の中の子は、逞しく育ってくれている。他の普通の子どもと同じように。
 この子は間違いなく、私と彼の子どもだった。その事実は大きくなるにつれて何度も実感させられる。
 星を集めたような美しい金の髪、白磁でしなやかな肢体。
 そして、濃縮した鮮血のような赤い瞳。
 顔の造形は目元と眉を除いて彼にそっくりだ。
 それは、成長と共により顕著になっていた。
 背を撫でていた手を離し、自身の腹をなぞる。
 デコボコと硬い皮膚の感触がした。
 開腹の痕。実験は、言わずもがな成功だった。
 そして、特に障害もなく産まれたこの子はすくすくと育ち、他の人間と同じくその命を全うするだろう。
 当初の予定通り片親のままで。
 こんな結末なら――
もっと早く彼の陰謀に気付くべきだった。
 否むしろ最初から、彼なぞこの研究チームに迎えるべきではなかった。
 或いは、臨床実験の被験者選定の際、私なぞが出しゃばるべきではなかった。
 もしくは連中に見つかったとき、大人しく従って帰還すればよかった。
 それとも、逃走を促されたとき、きっぱりと断り留まっておくべきだった。
 この場所を訪れる度に間違いの源泉を探すが、未だ答えには至っていない。
 そしてこの先もきっと、この子の成長を見守りながら悔恨と自責の念に苛まれ続けるのだろう。
 見つからない過ちの種を、言葉にできなかった愛の花を、叶わなかった未来の実を。
 それを探すため――私は永劫彷徨い続けるのだろう。
 この子を連れて。
「……また来る」
 別れの挨拶など誰も聞きはしないのに、口にし続ける癖は、五年経った今も直らない。
 後ろ髪を引かれる想いで、私たちは墓地を後にする。
 この台詞を本当に伝えたい相手はもういない。
 それでも私は、彼に向かって囁き続けるのだ。

「愛している……ヴォルフィ……」

 と――