研究所を脱出してからの生活は、おおよそ快適とは言い難かった。
数か月程度滞在してから次の街を目指す。その繰り返し。もちろん私の体調を常に気遣いながらだが、殆ど放浪にも近いこの生活は、余りにも過酷だった。研究所にいた頃は定期的に行っていた健診など、当然受けられるはずもない。半ば無一文にも近い状態で施設を出てしまったため、碌な住居に住まうこともできず、路上で暫く生活するのもザラだった。
そんな中アマデウスは、動けない私に代わって働きに出ては、路銀と生活費を稼いでくれた。どんな仕事をしているのか問うと、どこかの研究機関に入り、その手伝いをしているのだという。時々チームリーダー名義で論文も作成しているらしい。給金は、短期にしてはかなりよかった。
お陰で私は体調管理に専念することができる。
とはいえ、同業者として申し訳なさは拭えないが。
現在の住処は、1LDKの小綺麗なアパートだ。
「ただいまサリエリ。赤ちゃんどんな感じ?」
一通りの家事を済ませ、休憩に読書をしていたところで仕事を終えたアマデウスが帰宅する。
「おかえり。変わりなく安定しているから大丈夫だ」
何度もやり取りした挨拶もほどほどに、アマデウスは私の腹を触りたがった。本を傍らに置き、手招きしてやる。
「ずいぶん大きくなったね」
そう言って膝を付くと、スイカ程の大きさに膨らんだ私の腹を撫でながら耳を寄せる。その姿に、なんだか儀式めいたものを感じた。よく安定期に入った妊婦の腹に耳を近付けるという場面を写真か何かで見かけるが、まさにそんな感じだ。
「そういえば今って何週目?」
「三十二週は過ぎたな」
「じゃあ、胎動ってもう感じるの?」
「そうだな。さっきまで元気に動いていたぞ」
僅かだが力強くもあった、あの生の衝撃を思い出す。自然と腹に手が伸びた。
通常の妊婦と同じであるなら、今は〝妊娠後期〟と呼ばれる期間だ。安定期はとうに過ぎ、いよいよ腹が目立ってくると、今度はその重みで活動が制限される。
子どもの成長と併せて徐々に圧迫されてゆく内臓。当然、胃や肺なども押しやられているため、息苦しいことこの上ない。食欲も、安定期の時と比べると明らかに落ちてしまっている。
許容オーバー寸前の重量物を四六時中抱えて生活しなければならないという状況。これを世の女性たちは事も無げにしているのだから凄まじい。
「無事に産まれるといいね」
未だ聞こえぬ胎内の鼓動に耳をすませながら、独白めいた声でアマデウスが言う。私は短く「そうだな」と答えた。
腹を撫でる。
この、硬く丸々と膨れた中に詰まっているものが本当に我が子なら、もうじき訪れる〝出産〟で開くことになるだろう。
それは同時に研究の完成を示し、私の悲願は達成されることになるのだ。
体外受精を行った日、平たいままの腹を鏡越しで見つめ、触れたときの体温を思い返す。あのときはただの妄想であった膨腹状態が、今や現実として目の前に存在しているのだ。
ましてや三十二週を過ぎた頃ともなれば、まだ暫く成長する。臨月を迎え、分娩の瞬間まで、この腹は私の栄養を吸って膨れ続けるのだ。
「っ……」
ああ――堪らない。
腹の中で誕生を待つ我が子は、今の栄養のままでは足りないと、より重く、私を孕ませ続けるのだ。
ああ――
愛おしくてたまらない。
知らず詰めていた息をゆっくり吐きだす。
湿っぽくて熱くて、まるで情交を思わせるような吐息。徐々に身体が火照り、あるはずのない女陰がじわりと濡れる錯覚がして、思わず震えた。
「サリエリ……えっちな顔してる」
アマデウスの声で、急速に現実へ引き戻された。慌てて視線を向ける。彼は未だ腹に耳を近付けながらも、至極愉快そうな顔で私の顔を覗き込んでいた。
「腹が膨らんでくの、そんなに興奮する?」
まるで悪戯を思いついた少年のような表情だった。私はどう返せばいいか判らず、ただ見つめ返すことしかできない。
「いいよ、隠さなくたって。正直僕も……君の腹がどんどん大きくなっていくの見て……めちゃくちゃ興奮してるんだ」
「なぜ……」
「僕の悲願がもうすぐで成就するからさ」
そういえば前にもそんなことを言っていたな。今更ながら思い出した。
アマデウスの顔が腹から離れる。
「例えば、ずっと好きだった人が子どもを作れない身体だったとする。けれど何年も何年も研究を重ねて、ようやく妊娠が実現できたってなったとき、君ならどうする?」
彼の表情が精悍なものに変わる。最早団らんを楽しむ空気は皆無だった。
私は少しだけ思考を巡らせる。
「何年も研究を重ねた上での懐妊なら――」
嬉しい――のだろう。
たとえ当事者であろうとなかろうと、自分がその者の傍にいたならば、成功を祝し、研究させてくれた全てのものに感謝するだろう。
そんな、一個人的な意見を聞いたアマデウスは「そうだろうね」と満足げに頷いた。
「つまり今の僕は、そういう状態ってわけさ」
「意味が解らない」
「鈍いなぁ。つまり、大好きな君が子どもを授かってくれて、とても嬉しいってことだよ」
私は思わず目を見張った。
「お前が……私を……?」
信じられない。
だが目の前の男は、精悍な表情を僅かに緩ませて肯定した。
「君にとっては迷惑かもしれないけど、好きだった。ずっと前から……それこそ初めて会ったあの日から、僕は君に惚れていた」
言葉から熱を感じ始める。
「君が同性愛者って知ったとき、物凄く嬉しかった。しかも研究テーマは〝男性妊娠〟だ。喜んでチームに加わったよ」
アマデウスの両腕が私の背に回る。
身体が密着したせいで、腹が苦しかった。
「僕はこの研究を通して、大好きな君との子どもが欲しかった。そして、生まれた子どもと幸せに暮らしたかった」
それが僕の悲願だった。
そう、アマデウスは言った。
「なぜ、今になってそんなことを……」
私は、奴の考えていることが理解できない。私はゆるゆると首を振った。
ほう、という吐息が耳を撫でる。ゆっくりと、勿体つけるような間を置いて、余りにも簡潔な返答を示した。
「君も同じ気持ちなんじゃないかと思ったからだよ」
胸が痛んだ。
違う。
私はそんな崇高な想いで被験者になったんじゃない。
できあがった受精卵を胎内に入れたあの日から、その鱗片はあった。
そして徐々に膨れてゆく腹を毎日のように眺めては、高揚などでは言い表せない程の昂りを感じ、自覚した。
私は、自身の腹の中に子を宿す、この状況に性的興奮を覚えていたのだ。
好意を寄せる人物などいなくていい。
ただ私を孕ませてくれさえすれば、それで――と。
「……ちがう」
だから、否定した。
私の想いは、私の願いは、お前が思っているほどの高尚さはないのだと――そう、何度も、譫言のように。
最初はまだ清かった。
パートナーが同性というだけで子孫が残せぬ不公平さ。それを解消したくて研究を始めた。紛れもない事実だ。
だが、いつしか――あるいは自覚がなかっただけなのかもしれないが――それが低俗な性衝動にすり替わっていたのもまた事実。こちらはある意味、己の性欲を満たすための自慰行為と大差ない。
寧ろアマデウスが口にした〝好きな人との子どもが欲しい〟という欲求の方が、同じ私的願望でもまだ倫理的だろう。
だから――
「ちがうんだ……」
罪悪感に圧し潰されそうだった。
ぼろぼろと溢れ出る涙に視界を奪われながら、必死に否定し、懺悔する。
「すまない……私は、そんな……そんな、崇高な願いで、この実験に参加していた訳じゃない……」
急激に、自分の身体が汚らわしいものに思えてきた。
相手に悟られまいとしていても、こうしてバレてしまったなら、行きずりの者に性を売る淫売婦と変わらないではないか。
卑しくて、穢くて、浅ましい。
未だ私を抱き締めるアマデウスに離れて欲しくて、肩に手をかけた。力を込めて押し剥がそうとするも、絡みつく腕が一層硬くなり、叶わない。
「幻滅しただろう、離れてくれ……!」
「いやだね」
どうして――
「私は倒錯者だ」
「そんなの、僕だって同じだ」
「わたしはきたない」
「だからそれは僕も同じなんだって」
「こんなものは自慰とかわらない」
「じゃあ僕もいるから実質セックスだね」
なんだそれは。
身体の力が抜けてゆく。
冷えた頬が痛い。
ふたりだけの簡素なリビングに、暫し静寂が訪れた。が、先に破ったのはアマデウスだった。私から身を離し、膝を付いたまま向き合う。
「メイシオフェリアとかエンドソーマフィリアとか、君がパラフィリアだって言うんなら、同様の興奮を覚える僕だってそうだ。最初は君と子づくりがしたくて研究に加担したのに、今じゃ君の腹がこんなにも大きいことに興奮するんだぜ? ……ああ、堪んない。これからもまだ大きくなるって言うんだからほんと堪んないよ。僕の願いが崇高? へぇ、どこが?」
肩眉を吊り上げ、鼻でさも呆れたと言わんばかりに笑う。声音に、いつもの軽薄さが戻りつつあるのを感じた。
部屋いっぱいに張り巡らされていた緊張の糸が緩む。
アマデウスは続けた。
「言っただろ、〝悲願だった〟って。幸せ家族計画なんて、もう過去なんだよ」
手が触れ合う。まるで包み込むように、彼は私の左手を挟み、撫でた。
「今は君の腹がもっと膨らんでいくのが見たい。そして、一杯まで大きくなった君の腹を……僕の手で開きたい」
撫でていた方の手が私の腹に移る。
そろり、そろり。
身体の中心。鳩尾の辺りから下腹部にかけて、アマデウスの指先がなぞる。
ちょうど膨らみの始まりから終わりに向かって、真っすぐに。
そこは、帝王切開で開腹する線だった。
「……ぁ……」
ぞくり、と――
はしたなく身体が甘く疼く。
「楽しみだろ? 僕も楽しみだよ……」
そうだ。もうすぐなのだ。
もうすぐこの腹は開かれる。
実験の成功を意味する証。
私が子を孕んだという証。
それが消えない痕として残るのだ。
「ここでするのか……?」
逸る。
「いや、もうすぐ次の街に移る。腕がよくて足のつかない、いい医者が見つかったんだ」
早く行きたい。
「あ、やっと正直な顔になったな。ほんと君に惚れてよかったよ」
愛してる。そう言われた。
「そんな告白の仕方をする奴があるか」
「いいじゃん別に。で? 対する君はどうなのさ?」
「ああ……私なぞでいいのなら、喜んで」