妊娠が発覚してから、暫く不調が続いた。
初産の悪阻は酷いと聞くが、私の場合は妊娠悪阻に匹敵するものだった。
嘔吐と目眩が酷い。
一日に何度も、とまではいかないが、多いとやはり二度位は起きてしまう。
お陰で体重が三キログラムほど落ちてしまった。
「どう? まだ辛い?」
研究室を抜け出し、自室のベッドで横になっている私を、アマデウスが訪ねてきた。
「お前……まだ休憩には早いだろう」
思わず起き上がろうとしたのを手で制される。そして「君の様子が心配で」などと、捨てられた子犬のような声で彼は言った。
多分、サボりたいがための口実だろう。
私はそれ以上何も言わなかった。
「ねえ、お腹、見せてよ」
そろりと近付き、ベッド脇の丸椅子に腰かける。
彼の動作を眺めながら「構わない」と、布団をめくってやった。
「少し出てきたね」
まるで幼子の頭を撫でるような、そんな優しげな手つきで、目立ち始めた私の腹部を撫でている。その眼差しは、さながら血を分けた我が子のよう。
ぞくり、と――
なんだか背筋が寒くなった気がした。
「サリエリ」
アマデウスの声に、私はうまく返事ができなかった。
「話があるんだ」
改まってなんだ。
そう言いたいのに、詰まった声は言葉にならない。
「君のお腹に宿ってる子なんだけどさ」
アマデウスの視線が上がる。
目が合った。
「ソレ……僕の子でもあるんだよ」
「な……に……?」
彼の瞳が、唇が、弧を描いてゆく。
「だから、実験サンプルとして用意した精子は、ドナーのものじゃなくて、僕のものなのさ」
どういうことだ。
連中はそのことを知っているのか。
悪寒はより一層酷くなり、身体が僅かに震える。
「もちろん、チームのみんなは知らないよ。知ってるのは僕と、君だけだ」
ああ、なぜ――
腹の底から湧き上がる怒りのような熱を感じる。
しかし、上手く言葉にすることができず、私は呆然とした表情のまま疑問を口にするのがやっとだった。
アマデウスは更に身を詰めてくる。
「だからさ、子どもが産まれてこのことがバレる前に早くここを出よう!」
その声は真剣そのものだった。
私を射抜く視線の鋭さ、声の大きさ、そして私の腹を撫でる手の温かさ。
そのどれもから、彼の台詞に嘘偽りがないのだと、痛いほど思い知らされる。
「本気……なのか」
答えなど判り切っているのに、聞かずにはいられない。
「ああ本気さ!」
ほら。心の中で自嘲する。
すると私の問いに火が付いたのか、アマデウスは一層前のめりになり言葉を続けた。
「君が被験者に選ばれたとき、僕がどれだけ嬉しかったか君は知らないでしょ。……そもそもこの研究は、僕にとって悲願でもあるんだよ」
胸倉を掴まれそうな、泣きそうな、そんな顔だった。
一度も見たことのない彼の表情に、戸惑う。
いつもの飄々とした顔はどうした。
いつもの騒がしい声はどうした。
なぜ、そんなにも私に固執する?
疑問は幾つも湧いて出てきたが、すべて霧散してしまう。一向に私が返事をしないせいで、秒針の音が騒がしい。
まだ実験段階だというのに、私は、無事出産した後の情景を思い浮かべていた。
真っ赤な薄い皮膚に包まれた我が子を抱く自分。
成長し、表情が豊かになってゆく姿に微笑む自分。
さらに成長し、己の足で立つようになった我が子に喜ぶ自分。
言葉を覚え、親の名を覚え、読み書きを覚え、数字を覚え、徐々に自立してゆく我が子。
その傍らで見守るべきは、果たして本当に母親だけでいいのだろうか。
徐々に社会性が身について、父親の存在を聞かれたとき、母親である私は何と答えなければならないのだろう。
お前は妊娠実験によって産まれた子で、父親は顔すら知らない男なのだ、と。
そんな事実を話しても、子どもは健やかに育ってくれるのだろうか。
幸せな人生を歩んでくれるのだろうか?
そこまで考えると、私は急に腹の中の子に恐怖を覚えた。
「ぁ……」
アマデウスの視線が痛い。
「ねえ、判ったでしょ? この臨床実験は、子どもにとって必ずしも幸福とは言えないんだ」
だから、早くここを出よう。
そう言うアマデウスの声が鎖のように絡みつく。
産まれてくる子どもの幸福。
そのために、どんな行動をとるべきか。
私は――
こんな監獄のような場所には、もういられないと思った。
「一緒に、逃げてくれるのか……?」
「当たり前だろ。僕はこの子の父親なんだぜ」
差し出された手を取る。
実用化の研究という未練はあったが、迷いはなかった。