臨床実験開始からひと月が経った。
通常の妊婦であれば四週を越えているので、そろそろ悪阻が来ても可笑しくない頃だろう。もちろん、仕込んだ受精卵がきちんと借り腹に定着していれば、の話だが。
その日もいつも通り研究に明け暮れた。
被験者とは言え私もチームの一員だ。実験開始から欠かさず記録しているメディカルチェックや、論文作成、借り腹のローコスト化など、やることは山積みだ。
だから記録中はしっかり覚えていたのに、すっかり失念してしまっていた。
「ふぅーつかれたぁ。……ねぇサリエリ、今日のお昼何食べる?」
午前の研究が区切りのいいところで終わり、昼食を摂ろうかというときのこと。アマデウスの言葉にハッとなった私は、かなり過集中気味だったことに気が付く。
「あ、ああ。私はいつも通り食堂へ行くが、お前はどうするんだ?」
「じゃあ僕も行くよ」
正午過ぎの食堂は大勢の人で賑わう。
私は割と人の喧噪が好きなタイプなので敢えてこのタイミングに食事を摂るのだが、アマデウスは違う。研究中は大声で笑ったり私にちょっかいをかけたりと騒がしいのだが、聞くと他人の声は好きじゃないのだそうだ。
珍しい、と思った。
同時にいつもの気まぐれが発動したのだな、とも思った。
「わかった。なら、今から出るぞ」
だから特に追及することもなく、揃って研究室を出て行く。
食堂が近くなるにつれて大きくなる人の声。この賑わいは、研究所で過ごす中で唯一ともいえる時間だ。娯楽の少ない職員たちの憩いの場ともいえる。
今日のメニューはどんなものがあるだろうか。
細やかな期待に胸を躍らせていると、ふわり、と漂う匂いに足を止めた。
「おっ、今日は揚げ物だな!」
彼が、好物であるポークカツレツを彷彿とさせる香りに、表情が華やぐ。
しかし対する私は、その脂ぎった匂いの不快感に冷や汗を滲ませていた。
「……っ……ぅ……」
鳩尾が痙攣している。
その匂いは異物だと、身体が拒絶している。
急速にせり上がるものを押し戻そうと唾を飲み込むが、追い付かない。
遂には堪らなくなり、私は右手で口を覆い、食堂とは反対の方向へ走る。
「サリエリ?」
アマデウスの声が聞こえたが、今の私には、それに耳を傾け、足を止める余裕はなかった。