真昼にも関わらず、カーテンで締め切った明かりの灯らない部屋は暗い。その奥に設置されているベッドに背中を預け、サリエリは蹲っていた。
彼の周囲にはビーズクッションと水とオリーブオイルと、大量のタオルが散らばっている。
その中心、筋張った痩躯には、悍ましく膨れ上がる腹があった。
臨月を迎える妊婦のようなそれは硬く、丸々としており、中身が脂肪などではないことが伺い知れた。
判っている。何故なら成人してからこの時期になると、月に一度の周期でこの現象が起こるからだ。未だ産気づく気配の見せない腹を抱え、サリエリは縮こまる。
もういつ陣痛が来てもおかしくない状態であった。しかしこのサイズになってから随分経つが、まだ痛みはない。
膨れ始めたのは昨日の夜だった。食事を終え、片付けを進めていると腹に違和感を覚えたのだ。
すぐに卵ができたのだと気づいたサリエリは部屋に籠ってピアノを弾いているアマデウスに伝えると、極力顔を合わせないようにしてもらう。ついでにピアノも、卵を内包している間は弾かないようにしてもらった。以前、構わず弾かれたら急激に卵が生成されてしまい、大量の卵を産む羽目になったからだ。恐らく、彼の奏でる音色に身体が反応してしまったのだろう。自分のことながら現金なものである。
そうして夜が明け、彼が出掛ける直前に道具などを用意してもらい、産卵に向けて準備を万全にした。
徐々に膨れてゆく腹の違和感に耐えながら夜を明かし、朝になると臨月ほどのサイズになったときは嬉しかった。これなら彼が出掛けている間に終わらせることができると。しかしかれこれ半日経った今、その望みは着々と潰えようとしている。これでは彼が戻ってくるまでに終えることができない。
陣痛が来なければ卵は生成され、成長する一方だ。徐々に臨月以上のサイズにまで膨れ上がろうとしている自身の腹を擦り、サリエリはその圧迫感に呼吸が浅くなる。苦しい。内臓が圧迫されて堪らない。
いっそのこと彼を呼び戻して強制的に陣痛を起こさせようか。けれどそれをすれば文字通り腹がはち切れてしまいかねない。サリエリにはその恐怖に打ち勝つだけの勇気はなかった。毛布やコートを次々に羽織り、ひたすら腹を擦る。
痛みはまだ来ない。
どれくらい経っただろうか。壁にかかった時計に目をやると、三時は半ばほど過ぎていた。
陣痛はやはりまだ来ていない。圧迫感はいっそうきつくなり、上体を支えていられなくなってくる。サリエリはベッドに背を預けたまま、ずるずると身体を横たえた。硬いフローリングの感触に右半身の骨が軋む。
――ガチャ。
「………ッ!」
ふと遠くで扉が開く音を聞いた。思わず身体が強張り息をひそめる。何の音か、考えずとも明白だった。
アマデウスが帰ってきたのだ。サリエリは思わず舌打ちする。何故なら今日の帰宅は異様に早いのだ。
普段の彼なら夕食の時間以降にならないと帰ってこない筈なのだ。しかし今日に限っては、お得意の気まぐれが発動したらしい。まだ終わっていないのだと伝えなければならないのに、内臓という内臓が圧迫されているこの状態で大声を上げることは非常に難しい。陣痛さえ来てくれれば、痛みで絶叫して伝えられるのだが。嗚呼なんてもどかしいのだろう。足音が近づいてくる。その数がひとり分ではないことに、まだこの時のサリエリは気付かなかった。
部屋の前まで来て、足音が止まる。控えめなノックが聞こえると、余り間を置かず扉は開かれた。
「……サリエリ、終わった?」
――ころん。
アマデウスの声だ。
そう思うや否や胎内でまたひとつ、卵が作られる音がした。
そしていよいよ来た、産みの痛み。
「ッい! あっが……ひっ、ぅぐ!!」
びくりと身体が強張る。急激に陣痛が来てしまったことで普段できる筈の息み逃しが全くできない。
「ああぁ! ぎっ、ぐぅぅぅぅ!」
痛みと圧迫感でのたうち回る身体は、胎内の卵を排出せんと、ごろごろ動く。呼吸が整わず、痛みと共に悲鳴を上げることしかできない。
「ちょっと今日のはヤバそうだなぁ。ホラ、まだ息んじゃダメだろ?」
この場に似つかわしくない、やけに落ち着き払った声がサリエリの鼓膜を叩く。同時に腹の圧迫感が増した。
「あーあーこれはマズイな。腹がはち切れそうだ。……ねえキミさ、悪いけどちょっと手伝ってくんない?」
彼の声を聞いて卵が更に生成される。やめてくれ。これ以上話し掛けられると本当に腹が裂けてしまう。痛みで動けない身体を叱咤して首を振る。痛いから、苦しいから。もうやめてくれ。後生だから。
両手と両足を掴まれた。ズルズルと引きずられながら仰向けにされ、両足を立てられたと思ったら大きく開かされた。さながら、分娩台に磔にされる妊婦のようである。両腕は羽交い絞めのようにされ、サリエリは上体を固定するそれに縋りついた。
「はっはっ、は……ふ、う」
股をひんやりとした空気が通り抜けた。気付けば下肢は晒されており、その間に見知った金が占拠していた。
――ころん。
ああ、また卵ができてしまった。
「はぁ……ぃ、た……ぃゃ……ッ! ふ、ううううぅぅぅぅぅぅ!」
強烈な痛みが襲い掛かり、びくりと背がしなる。腹に力を入れると胎内の卵たちは徐々に下りていき、孔から顔を出す。
「っはぁはぁ……ひっ、う、ああああああああァァァァァ!!」
寄せては返す痛みに合わせて息み続けると、ぬち、ぬちという音と共に縁が広がってゆく。白い殻が徐々に見え始め、ひときわ強い痛みに襲われると、ごろんと響かせながらようやく一つ目が出てきた。それはソフトボール大のおおきさだった。
「あ……は、はぁ、ふ……」
「詰まらせずによく頑張ったね。ホラ、その調子でもう一個」
――ころん。
「っ……は、がああああああああ!」
しかしせっかく必死にひとつ目を産んだというのにこれでは意味がない。
「はぁ……はっぐ、うぅゥーーーーーー!!」
目の前の同居人を視界に入れないよう、目を閉じた。相変わらずリズミカルに襲ってくる痛みが更に増した気がする。その度に息み、雛にならない卵を産み落としてゆく。
そうしてようやくリズムを取り戻してからしばらく、胎内を占拠する卵の数はほとんど無くなった。破裂しそうなほどの孕み腹はだいぶ萎み、服を着れば目立たない位にまで戻ったのだ。
あとひとつ。あとひとつで永かった産卵が終わる。
サリエリは安堵から無意識に身体を弛緩させていた。
「まだ終わってないだろ」
「…………え、……ッ!?」
――ころん。
ああ、なんで。
――ころん、ころん。
「あっ、あっ……いやだ……いやだアマデウス……!」
また、腹が膨れてゆく。
「ホラまた卵ができた。さあ、頑張って産んでおくれよ」
――ころん、ころころ。
今までの比ではないスピードで、みるみる卵が生成されてゆく。
「ひぐっ、いやだ! もう産みたくない!」
「産みたくないったって、じゃあその腹はどうするんだよ。そのままにしとくの?」
「いやだぁ! っう、く……くるしい……くるしいんだ……ぁ…いやだ……たすけて……」
疲弊しきった身体に鞭打って必死に暴れる。長い脚をばたつかせ、髪を振り乱す。が、それも長くは続かず、早々に動けなくなってしまった。
そうこうしている間に腹は臨月の大きさにまで成長してしまう。サリエリは絶望した。このままでは産気づくのも時間の問題だ。出産はまだ終わっていない。痛みが来れば直ぐに出さなければならない。
「……くるしい………もうむりだ……たすけて……」
視界が膜を張ったように歪む。部屋の暗さも手伝って、サリエリの目はもう闇と目の前で光るエメラルドの双眸しか映せなくなった。
サリエリを射抜いていた筈の宝石が、僅かばかりずれるのを感じた。そう言えば目の前にアマデウスがいるのに、どうして己の上半身は固定されたままなのだろう。涙で顔がぐしゃぐしゃなのにも構わず、サリエリは恐る恐る振り向く。
「…………ひッ!!」
「ああなに、いま気付いたの?」
弾かれたように正面へ向き直る。悲鳴は声にならなかった。
「今日からキミのお産を手伝ってもらうことになったんだ。キミもよく知ってる人だから、これならもうちょっと楽に産めるだろ?」
よかったね。アマデウスは笑っていた。
またしても腹が膨らむ。自分はこんなにも苦しい思いをしているのに、どうして笑顔でいられるのか。彼の表情から目が離せなかった。
再び涙の膜が視界を覆う。ゆるゆると首を振るとそれは、はらりと伝い頬を濡らした。
「いやだ……いやだアマデウス………あまでうす……」
いやだ、あまでうす、ゆるして。
うわごとのように何度も口にする。サリエリにはもうそれ以外の言葉を発するだけの思考が回らなかった。きっと自分はこの同居人の癇に障るようなことをしてしまったのだろう。何の根拠もないのに、アマデウスのこの発言はサリエリにとって有罪判決にも等しいものだった。
「あまでうす……あまでうす……」
徐々に内臓が押し上げられてゆく。じわじわと起き上がる痛み。出産はもう目前だ。
「あまでうす……たのむ…ゆるして………」
何度も、何度も声をかける。
そばに居ないでほしい。この部屋から出て行ってほしい。ひとりで産ませてほしい。
そのあとの始末はきちんとするから。事が済んだらお前の望みを何でも聞くから。
だから、お願いだから、ひとりで産ませてほしい。
サリエリは懇願した。己の意志に反してはしたなく腹を膨らませる自分の身体が怖い。そしてそんな自分を孕ませる彼が、恐ろしくて堪らなくて。
涙は未だ枯れる気配を見せない。
「わかったって。……そんなに怯えるなよ」
ひときわ笑みを深くしたアマデウスは、大げさともとれる溜め息をつき徐に立ち上がる。踵を返し扉へ向かう後ろ姿を眺めて、サリエリは瞼の緊張を解いた。ようやく部屋から出てくれるのだ。
しかしそこではっとする。
なぜ、自分を拘束する彼は離れてくれない?
ドアノブに掛けた手を離し、アマデウスは振り返る。
「じゃ、あとは頼んだよ」
それはサリエリに向けた台詞ではなかった。バタン、と音をたて彼は部屋から姿を消す。
引き留める言葉は、出なかった。
「……ッ!?」
不意にそろり、と腹を撫でる感触がしてサリエリの身体は強張った。肩周りの拘束が緩み、下に移動したからだ。するすると柔らかな手つきで滑り、胎動が促される。
そしてそれに呼応するかのように、サリエリの腹は再び激しい痛みに襲われた。
「はっ、あ、あああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
いやだ。はなせ。はなして。
言葉になっているか判らないが、それでも持ちうる力を振り絞って暴れ、拒絶する。
「はぅ、っぐ! うううううぅぅぅぅぅぅぅぅ!!」
だがサリエリの身体は、それよりも胎内にある卵を排出するのを望んでいた。無意識に両脚が広がり、呼吸は息むものへと変わってゆく。産道とその孔が柔らかくなっているのだろう。ごろごろと音を立て、ソフトボール大のそれは先程よりもスムーズに出てくる。
永い間、孕み腹を抱えていたせいなのか、腰が軋むように痛む。卵が産道を通って外へ出される度に背筋を駆け抜け、弾かれたように仰け反る。再び視界が潤み、サリエリは自身の置かれたこの状況と終わりの見えない痛みに絶望し、首を振った。