彼が何を望んで、こんな人を試すような手紙を書いたのか。
あの男は強い願いを持つほど隠したがる捻くれ者だった。
だからこそあんな保険までかけてサリエリに作曲の続きを依頼したのだ。
否、これは“依頼”などと言う対等なものではない。
あの男がサリエリにした願いとは、殉教者が神に請う“許し”そのもの。
音楽の神とやらを信仰するが故に、あの男は自ら命を断ったのだ。
そしてその代わりに、同じく音楽の神を信仰するサリエリに続きを託そうとしたのだろう。
しかしサリエリはそれに気付く事ができなかった。
何もかもが終わり、葬儀すら終わった頃になって漸く、サリエリは見つけてしまったのだ。
当時の哀しみと絶望は、どうしてか昨日の事のように思い出せる。
すると全身を抗い難い苦痛が駆け巡り、腰に下げた短剣を自らに突き立てたくなる衝動に駆られるのだ。
なぜ。
何もない筈の己の何処に、慈悲を求める場所があると言うのだろう。
痛い。
頭が、喉が、胸が、指が、脚が、全身が痛い。
身体の至るところ、内臓から心までの全てが痛くて堪らない。
痛覚が無い己の全身が激痛に悲鳴を上げている。
この痛みは何処から来ているのか、誰が齎しているのか。
判らない。
わからない。
◆
暦が一二月五日を告げた頃、身の内を焼き続ける燎原の炎が揺らめくのを感じてマスターの許へ行くと、彼はレクイエムを聴いていた。自分でも驚く程に動揺した己は間抜けにも「何故だ」と問うた。すると彼はどの辺りから作曲者が変わったのか気になったのだと言う。誰に聞いたか判らないが彼は知っていたのだ。揺らめきが酷くなり、感じる筈の無い激痛が己を襲ったが、多分やり過ごせただろう。簡潔に九小節目からだと答えて、早々に自室へ戻った。
どれだけ縮こまっても、どれだけ自身を掻き抱いても、炎の揺らぎと痛みは治まらなかった。神才に対する憎悪と殺意はどうしてだか全く沸かず、別の感情に支配されていそうで恐ろしい。いつの間にか溢れていた涙すら拭えず、頬を伝っては喉を覆うアスコットタイに吸い込まれてゆく。
サリエリはずっと、友の願いに応える事ができなかったと泣いていた。死してなお大衆に罵倒され続けながらそれを悔やみ、懺悔していた。一言だけでも謝りたいと、真っ赤な涙を流しながら。
しかし皮肉にも座に招かれたのはサリエリではなかった。彼は己を構成する一部。人の形をとるためのモデルに過ぎない。如何に己があの神才にサリエリの後悔を伝えたところでそれはサリエリの言葉ではないのだ。己はただサリエリの感情の鱗片を感じ取っただけで、本人から直接聞いた訳ではないから。
彼は、死した人間に謝辞を伝える手段は、もはや言葉では実現できないと理解していたのだろう。だからこそ彼は自身のレクイエムに神才の痕跡を残した。消えゆく名だと判っていながら、彼は後世に残る可能性のある手段をとったのだ。
そのとき彼はどんな想いで作曲を行ったのか、何故その曲を選んだのか、サリエリの皮を被っただけの己ではそれを知ることはできない。
痛い。
頭が、喉が、胸が、指が、脚が、全身が痛い。
身体の至るところ、内臓から心までの全てが痛くて堪らない。
痛覚が無い己の全身が激痛に悲鳴を上げている。
人として乏しい知識と経験をフルに働かせて考え付いた痛みの原因は、恐らくアマデウスに対するサリエリなりの“悼み”なのだろう。何もかもが終わってから見つけ出してしまったあの手紙の“願い”を果たすため、誰に許しを請うでもなく、判る者にしか知られない様に。
扉に阻まれたその先で、神才の声が、レクイエムが、己の鼓膜を柔く叩く。痛みが増して、いっとう小さく身体を丸めた。
奴の葬儀は没した二日後だと言う。恐らくこの耐え難い苦痛はその日が終わるまで己を苛み続ける事だろう。夢見ぬ眠りに身を任せるため目を瞑る。
意識は沈まず、ただ水面を揺蕩うだけ。
涙は未だ止まる気配を見せない。