恋情を摘み取る

 彼岸花は血を吸って赤くなるのだと子供の頃に教えられた。
 ならばその数が多くなれば多くなるほど、吸う血の量は増えるのだろう。ひとつそれなりに広大な花畑を作るならば、一体どれだけの私が必要だろうか。

 壊れた腕時計をいつまでも捨てられずにいる。
 お守りでも形見でも何でも無いのに、それはずっと私のコートの左ポケットを占拠している。何気なく伸ばしそこに触れると、胸を締め付ける想いが溜め息を引き連れて唇から零れ落ちる。直そう、という気はなかった。
 この腕時計は私が三十の誕生日を迎えた日に貰ったものだ。アマデウスからの生まれて初めてのプレゼント。もの自体は然程でないにしても、碌に働いていない彼からすればさぞ高価な買い物だったろう。アマデウスはそんな大切なものを、プレゼントしたその日に壊してしまった。
「ただいま……」
 同居人の就寝を見越して静かに帰宅する。なるべく音を立てないよう慎重に扉を閉め、靴を脱ぐために身を屈めると、不意に玄関の明かりが点いて驚いた。
 思わず身が強張り、恐る恐る顔を上げると、寝ているはずのアマデウスが立っていた。
「ねえ、いま何時だと思ってんの?」
 おかえり、の科白が来ない理由は明白だ。私は素直に「遅くなってすまなかった」と謝った。
「テストの採点をしていたら、思いの外かかってしまって――」
「そんなの僕には関係ない」
 ああ、駄目か。
 諦めて視線を下げると、アマデウスに手首を掴まれ、まだ靴を脱いでいないにも関わらずリビングへ引き摺られて行く。足が縺れたのと床に引き倒されたのは同時だった。バタンという無様な音が下の階にまで響く。
「なんで傍にいないんだよ! なんで僕を独りにするんだよッ!!」
 悲鳴にも似た怒声が、今度は上の階にまで響く。馬乗りになって拳を振り落とし続ける姿は、暴力者のそれであるはずなのに捨てられた子供のような弱々しさがあった。
 しかし子供ではない彼の手によって齎される痛みは、尋常ではなく激しい。
「夜独りで寝るときどれだけ寂しいか君にわかるかよ! 目覚めたら誰もいない状況がどれだけ辛いか君にわかるかよ!」
 わかっている。だから今日も早く帰ろうと昼食の時間すら削って仕事を進めたのにこのザマだ。定時が近付くにつれて焦った私はアマデウスの寂しさを少しでも和らげようと遅くなる旨を伝えたのに、却って逆効果だったらしい。
 鈍い痛みがじわじわと全身に広がってゆく。まるで彼の寂しさを刻みつけるように、完治しきっていない場所の上にも新たな痣を受けた。服の下が、また青黒く染まる。
「……ぐうっ! がはっ!」
 鳩尾を殴られ、胃液がせり上がる。堪らず吐き出すと、透明な液体に僅かな赤が混じっていた。瞬間、アマデウスの暴力がぴたりと止んだ。
「あ……ぁ……ごめん……そんなつもりじゃ……」
 カタカタと震えながら首を振っている。ごめん、ごめんと何度も呟きながら、私を抱きしめる。その背に、私はまたしても腕を回してしまった。
 ――ああ、駄目だ。
 コートの左ポケットに仕舞われたままの腕時計がかちゃんと鳴る。ああそうだな、どうやらまた駄目だったようだと、誰に向けるでもなく内心でそう呟く。
 腕時計が壊れた日もそうだった。殴られて口の中が切れただかで血を吐き出すと、アマデウスは真っ青になって私にすがりついたのだ。「ごめんよ」と涙ながらに謝られて、思考を閉ざしていた私はただ無感情に「私の方こそすまなかった」と返した気がする。そのとき床に転がったままの壊れた腕時計にデジャヴを覚えて、思わずポケットの中に突っ込んで隠匿したのだ。
 どうせすぐデジャヴですらないことに気付かされると解っていても。
「ごめん……ごめんサリエリ……」
 どうか僕を独りにしないで。アマデウスの声が鎖のように絡み付く。
 とっくに壊れた関係だというのに、ポケットの腕時計を直そうとしない私同様、彼もまた修復するつもりはないらしい。あるいは、破綻していることにそもそも気付いていないのか。愚かな私では知りようがない。
 彼の背を撫で続けながら、床に吐き出した赤い痣を眺める。
 血を吸って育つ花があるのなら、今ここにその種を蒔けば咲くのだろうか。あるいは私の体内にその種を仕込んでおけば、この愚かな身体を埋め尽くすほどに咲き誇ってくれるのだろうか。
 どうせ逃げられない、逃げるつもりもないのなら、身体の自由も自我も五感も、何もかも必要ないだろう。とくに痛覚が煩わしい。痛みがあるから、人は逃げることを覚えてしまう。本能的に逃げようとしてしまう。ならそんな感覚などなくなってしまえば、これ程楽なことはない。
 人間のままでいようが、花になろうが些末なことだ。どれも私の血を内包していることには変わりなく、花に至っては私の身体から産まれている。言うなれば我が子も同然というものだ。
 きっとアマデウスなら、花になった私でも愛してくれる。激情も熱情も恋情も変わりなく湧き、そして注いでくれるだろう。
 だって――
 私たちの関係など、とうに壊れてしまっているのだから。