「ええ、私は彼を愛していましたよ」
そう言う男の深紅の瞳は、蕩けたジャムのように甘やかだった。
「鍵盤を踊る彼の指から生み出される音まで、余すことなく、愛していました」
ええ愛していましたとも。
目を伏せ、僅かに朱が走る頬。吐き出される吐息は熱っぽく、まるで夢見る少女のようだ。
落ち着いた声音が段々と上がってゆく。綻んだ目尻が向ける先は私であって私ではない。解ってはいるが、それでもなんだか視線が絡み合うような心地がして思わずドキリとした。ほんの少しだけ弧を描く口元。その唇が紡ぐのは私ではない別の男の惚気話。
わかっている。わかってはいるのだが。
嗚呼ダメだ。その気になってしまいそうだ。私はほう、と溜息を零した。
甘ったるいジャムの様な瞳を独り占めできたならどんなにいいだろう。煮詰めた砂糖の様な声を独り占めできたならどんなにいいだろう。無理だと、無駄だと知りながらそう思わざるを得ない。でもダメだ。そうしては駄目なのだ。
彼と相対する度、私の胸は数多の甘味料で埋め尽くされぐつぐつと丹念に煮込まれる。そうして出来上がった甘ったるい塊を、私は未だ名付けられずにいる。
「――ですから、私は後悔などひとつもしていないのですよ」
そして幾度となく聞いた科白が、こうして彼の口から零れると漸く我に返るのだ。
席を立つ。
「解りました。また来ます」
「……私の罪を軽くしようなどとは、思わない方がいい」
彼の声がやけに耳に残った。
貴方の瞳と声に逢いに行き、四十五秒ほどで醒めて別れた。
私はそれを明日以降も繰り返す。