「やあ亮! 久し振り!」
それは一年振りの再会だった。ふと思い立って連絡してみたら、意外とすんなりアポが取れたのだ。電話越しで話しながら、彼もまた僕に会いたかったことを知る。コミュニケーションにおいて無精気味な彼だが、今回ばかりは重い腰を上げてくれたらしい。
連絡から三日後、珍しく店の予約を買って出てくれた亮が指定した場所は、都内でも有数の高級レストランだった。上階がホテルになっていることから、恐らく彼はここに宿泊するのだろうと推察する。
約束の時間ピッタリに入店しウエイターに名前を告げる。ウエイターの案内で店の奥へ進み辿り着いたのは、壁と同化するように作られたドアの前。レストランにしては物々しいそこは、VIP向けの個室だった。
セレブになったもんだなぁと思いつつ、こんな上等な店に通されて財布は大丈夫かしらと内心で冷や汗をかく。細波立つ僕の胸中を他所に、ウエイターは個室の中へ誘導する。恐る恐るといった足取りで入ると、二人掛けの奥の席で待っていた亮と目が合った。
そのときに発したのが冒頭の科白である。声は裏返っていないかヒヤヒヤしたが「元気そうだな」と片手を上げる姿を見るに多分大丈夫だ。ごゆっくりという声を聞いて振り返れば、案内を終えたウエイターは去っていた。僕と亮と、ふたりきりになる。
「君の方こそ元気そうでよかったよ」
席に近付きながらジャケットを脱ぐ。それを壁にかけ、向かい側にしまわれていた椅子を引いて腰掛ける。黒のハイネックにグレーのジャケットを羽織ったカジュアルフォーマルスタイルの亮と対峙する。ヘルカイザーのコートはどこにもなかった。
「今日って、もしかしてオフ?」
「ああ。とはいっても、単純に移動日だっただけだが」
明日からまた忙しくなる、と溜め息交じりに零す亮の落ち着いたテノール。充実感の中に疲労が僅かに滲んでいた。表情は療養中に見たような柔らかなもので、かつてプロリーグ界を震撼させたヘルカイザーの面影はない。
仄暗く絞られた照明の加減か、亮の涼やかな目鼻立ちがぼう、と白く浮いているように見えた。見方を変えれば幽鬼のように見えるそれに、僕は僅かな胸騒ぎを覚える。元から新雪のような肌をしていたから、気のせいだと言われたら鵜呑みにしてしまいそうだが。
「じゃあ、そんな貴重なオフを、僕のために割いてくれた訳だ」
それにせっかくの再会に水を差すような感情は極力控えたい。多忙なスケジュールの合間を縫って、彼は僕のために時間を作ってくれたのだから。
「他でもない吹雪の誘いだからな」
「嬉しいことを言ってくれるね」
ほらね。ヘルカイザーになっても、亮の優しさは変わらない。リスペクトを棄てたと言っても、彼の根本はずっと同じままだった。親友と心を開いた相手には惜しみなく情を見せる。それが丸藤亮という男なのだ。
僕は僅かに芽生えていた胸のしこりに蓋をした。
「そう言えばこの間、子供向けのデュエル教室番組に君が出てるのを見たよ」
「ああ、あれか」
「子供向けだって言ってるのに、説明が難解で思わず笑っちゃった」
向かい合うこと暫く、亮がウエイターを呼んでくれたので、僕は赤ワインを注文した。それがコース開始の合図だったらしく、程なくして飲み物と同時に前菜が運ばれる。
白い平皿の上に飾られた、見慣れないオードブル。どうやらフレンチのコースらしい。数分前の記憶を辿ると、メニューに並んでいたワインにフランス産のものが多かったことを思い出す。あまり詳しくないからお店の人に勧められるまま頼んじゃったけど、まあ大丈夫だろう。それよりもあの亮がフランス料理を頼むのが意外過ぎて、ふたりきりになるのを待ってから揶揄ってやった。
亮はそれを涼しい顔をして聞き流した。グラスに口を付けながら一言「ここの店はあまり味が濃くないからな」と言って。中身は水だった。
なるほどねと、思わず脱力する。亮の偏食はプロになっても改善されていないらしい。まあ、頑なに食べようとしなかった当時に比べたら目覚ましい進歩か。
「それで? あの番組になんで出ようと思ったんだい?」
そして話を戻す。けれどちょうど同じタイミングでウエイターが現れ、早々に食べきった前菜を下げてゆく。次に出されたのは上品な透明感を放つコンソメスープだった。ポトフのようなゴロリとした具ではなく、どちらかというと〝飲む〟行為に重きを置いていて、細かく切り刻まれてぷかぷかと浮いている。確かに、亮が好みそうなメニューだなと思った。
さて、一向に質問に答えてくれない親友に視線を戻す。亮としてはソッチの話題の方が触れてほしくないらしく、目を伏せて淡々とスープを啜っていた。〝偏食家なヘルカイザー〟の方がずっと恰好悪いと思うのに、やっぱりちょっとズレている。
やがて僕の視線に耐えきれなくなったのか、小さく咳払いをしてスプーンを下ろした。
「吹雪、お前……番組を見たなら見当も付くだろう」
「あー……そういえばサイバー・ドラゴンについて解説してたね」
「ああ。つまり……そういうことだ」
いや全然解らないし!
こうして都合の悪い話になると相手の想像に任せようとする癖は相変わらずだなぁ。他の人はそれで通ってたかも知れないけど、今日の相手は僕だ。亮の親友を自負している以上、通用しない。
当の本人も何となく察したのだろう。残り少ないスープを器ごと両手で掴んで流し込む。
高級フレンチをまるでラーメンの汁みたいに――勿体ないなぁ。
そうこうしている間にウエイターが次の料理を持って入室してきた。ひとつ目のメインディッシュとなるポワソンだ。ソースを纏った立派な車海老が、繊細な配置で美しく造形されていた。
ナイフとフォークを使って一口食べてみる。プリプリとした海老の食感。噛めば噛むほど旨味が広がり、絡まっていたソースの風味がそれを引き立たせていた。正直、めちゃくちゃ美味しい。
こんな料理を目の前の彼は普通に食べてるんだろうなぁと思うと、親友なのに遠い存在になったような気がしてくる。胸中に吹き込んだ一抹の寂しさ。これ以上この料理に思いを馳せていては余計に切なくなりそうな気がしてやめた。
「で? どういうこと?」
僕は未だ口を割ろうとしない亮に話の続きを促す。
「ああ……その、最近、サイバー・ドラゴンの補助カードが増えただろう?」
「そう言えば……。でもアレって、そもそもサイバー流道場で修行した人しか持てないカードだったよね?」
「そうだ。俺はそれを一般向けに解放したんだ」
「え……なんでまたそんなことを……?」
亮の意外な告白に、僕は目を丸くした。
道場のことについては軽く耳に入れた程度の知識しかない。まして、正当な後継者である亮自身が一言も語らないから知りようがなかった。ヘルカイザーとなったことで流派を冒涜したも同然な彼だが、関係者に直接迷惑をかけるような真似はしないと思っていたのに。
「そんなことをして、本当によかったのかい?」
部外者と解っていても、問わずにはいられなかった。
「どうだろうな。取り敢えず、師範からはまだ抗議の連絡は貰っていない。良くはないだろうが、まぁ悪くもないのだろう」
空になった水を手酌で注ぎ足しながら、亮は口角を釣り上げる。あ、その顔はちょっとヘルっぽい。本当、昔と比べて色んな表情を見せるようになったよなぁと思う。
――それにしても、呆れた。
「君がそんな腹黒かったなんて、僕は驚きだよ」
「何を言う。これはサイバー流の将来を見据えての行動だぞ」
「ほう。聞こうじゃないか」
ポワソンを食べ終えた。次いで現れたソルベを軽く平らげ、お互いにグラスを傾けながら親しい顔を見つめ合う。僕らの間を流れる空気は、デュエル中のメインフェイズを彷彿とさせる。どんなカードを出してフィールドを制圧しようか思案する、緊張のひとときに似ている気がした。
「そもそも俺だけが、あのデッキを持っている現状こそ疑うべきだったんだ」
そして威厳と落ち着きのある彼の低音は、相棒のサイバー・ドラゴンを召喚するときの声と重なった。
「デュエルモンスターズの前提は娯楽だ。大人も子供も、男だろうが女だろうが楽しむ権利がある。故にカードは世界中に溢れ、同じだけデュエリストも存在する。サイバー流も例外ではない。確かにアレは、心技体、全てを習得しなければ扱いは難しいが、それでも、カードを所持する人間を限定していい理由にはならない」
普段よりうんと饒舌に話す亮の言葉が途切れる。見計らったかのようにウエイターが現れ、もうひとつのメインを運んできた。肉料理を意味するヴィアンドのご登場だ。上品なサイズのステーキに乗せられたトリュフが、ブラウンのソースで美しい光沢を放っている。
僕らはナイフとフォークを手に取って食事に集中した。カチャカチャと食器同士がぶつかる音が響く。ああ、やっぱり美味しい。味付けは繊細だが、ステーキ特有の無骨さに味蕾が刺激される。
「なるほどね。つまり君は、サイバー流も他のカードと同じように世界中に広めたかった訳だ」
料理に目を落としたまま、僕はその合間に続きを促した。
「ああ。サイバー流はずっと停滞していた。俺だけがどんなに頭を捻ってデッキを組んでも、それは過去の焼き直しに過ぎない。こんな状態でよく今まで勝ってこられたと思う」
「カードの知識は人一倍豊富だったからね」
これまでと比べて、一番のメインであるこの料理を食べるスピードはゆったりだ。別に急いでいた訳ではないけれど、量より質を求めるフレンチの特性上、すんなりと食べ切れてしまう。
特に亮はシンプルかつ素朴な味付けを好む。
ゆっくりと噛み締めるように咀嚼する亮。時折、水で舌をリセットしている辺り、やはり苦手なのだろう。
行儀の悪いことだと理解しているが、堪らなくなった僕は身を乗り出して自身のナイフとフォークを伸ばす。無言で半分ほど切って奪うと、僅かに驚いた亮がぽつり「悪いな」と零した。それを笑顔で応えてやり、再び食事に戻る。
食べ終えたのはほぼ同時だった。
「……だがそれにも、限界を感じた」
かちゃん。
ナイフとフォークを持った亮の手が下りる音だ。
「カードが過去のまま取り残されているなら、現在に追い付けばいい。デュエリストが日々進化しているように、カードもまた、進化しなければならないんだ」
視線が上がり、僕と目が合う。真っ直ぐで怜悧な瞳の奥には、碧色の炎が宿っていた。人は彼の目に〝冷たさ〟を感じるらしいけれど、僕は正反対の温度を感じた。それは、彼がデュエルに対して敬虔なまでに誠実なことを知っているから。
「俺は、自身のデッキをメディアに公開した。そして
そう語る亮の瞳は、我が子の巣立ちを喜ぶ親のように煌めいていた。外の世界へ向けて、亮の手からサイバー・ドラゴンが飛び立った証拠。ほんの僅かな寂しさを残しながらも、更なる進化の可能性を確信しているから悔いはないという顔だ。
「因みに公開したのは学生時代に使っていたデッキだ」
なんて、楽しそうに亮は笑う。
打算的なんだか博愛的なんだか。彼の並外れた行動力に、僕はふたつ年下の赤い少年を思い出す。亮とあの子が惹かれ合っていたのは、きっとそういう所が似ていたからなんだと思う。
「予想通りだった。サイバー・ドラゴンは瞬く間に環境を席巻し、お陰で関連カードが随分と増えた。デッキも回りやすくなったし、今後はもっと使用人口が増えていくだろう」
「そうして、君が大切にしていたカードを誰かが使うことで、サイバー流は守られていくんだね」
「少なくとも俺はそう信じている。が……果たして歴代の師範達は何を思うか」
「きっと認めてくれるよ。例えば鮫島校長辺りは大丈夫なんじゃない? 寛容な方だし」
「言っておくが吹雪、師範は意外と狭量だぞ」
「えっ、そうなの?」
僕の知らない校長の性格を聞き、面食らう。そうだった。亮は学園に入学する前からあの人のことを知っている。
ふと、道場時代の亮について興味が湧いた。どんな修行をしたのかとか、校長に何を教わったのかとか、どんな生活を送っていたのかとか――気になりだしたら、疑問は湯水のごとく湧いて出る。
しかしそれを口にしようとしたところで、ウエイターがまたしても現れた。手にはデザートと思しきものがふたつ、ワゴンの上に乗っている。テキパキと優雅な動作で皿を交換するウエイターに、僕はワインの追加を頼んだ。亮の方はまたしても水だった。
皿の傍らに並んだスプーンを手に恐る恐る口に運ぶ。シャリシャリとしたシャーベットの食感と、爽やかなレモンの風味が口いっぱいに広がる。甘味は気にならない。きっと僕に合わせてくれたんだろう。彼のさり気ない気遣いを感じ、胸がじんわりと温かくなった。
対する亮は僕の胸中を特に気にする様子もなく、黙々と食べ進めている。小さな口で氷菓子を咀嚼する静かな動作。自然体ながらも、洗練されていてとても美しい。
「ごちそうさま。最高のディナーをありがとう」
そして、僕らは同時にスプーンをテーブルに置く。
「気に入ってくれたなら良かった」
クスクスと、控えめながらも笑い合う。学生時代に見せ合った晴れやかな顔は、時が経っても変わらない関係性を示していた。僕は歯を出して、亮は緩く握った拳を唇に添えて――
あれ? そういえば亮ってば、ずっと手袋をしてる。
「吹雪、今日はありがとう。俺はこれからここで別の会食があるから見送れないが、仕事で一緒になったときはよろしく頼む」
それに一度も立ち上がる気配がない。
魔法が解けたみたいに蓋が緩み、違和感が押し寄せてくる。しかしそれを口にする隙を与えず、亮は別れの挨拶を口にした。僕より一足先に大人の世界の一員になった彼は、主導権の握り方を心得ている。学生時代は僕の方が一枚
一度決めたことは梃子でも動かないのが亮だ。きっと僕が何を言っても聞き入れてはくれないだろうし、事情も話してくれないだろう。
だから僕は、帰り支度の延長で亮の真横に近付く。二の腕を掴んで引き上げると、記憶より骨張った感触がした。
「……ッ!?」
これには流石の亮も予想外だったらしい。驚愕に見開いた目を僕に向け、されるがまま立ち上がる。
途端、苦痛に顔を歪ませた亮。ビクリと身体を震わせて息を呑む。
掴んだ腕から亮の体重を感じる。ずしりとした重みは、彼が自立できないことの証左だった。僕は思わず顔を顰め、亮を睨む。
「ははっ……まいったな……」
脂汗をかきながら、亮は嗤った。彼は自由な方の手を伸ばし、自分を吊り上げる僕の手を掴む。弱々しい指先が腕と手の間で引っかかる。手袋に覆われていて解らないが、たぶんそこも記憶より細くなっているのだろう。
「痛いんだ……放してくれ」
そう訴える声は、まるで喘ぐかのようだった。
「亮……いつから……」
「さあ……気付いたらこうなっていた」
いいや。聡い亮のことだから、それは嘘だと思った。
僕はゆっくりと腕を下ろし、衝撃にならないよう細心の注意を払って座らせる。
眼下の亮は小さく肩を上下させながら俯いていた。僕に掴まれたそこを押さえ、ジャケットに深い皺を刻む。碧色の髪が重力に沿って流れ落ち、表情を覆い隠す。一切の露出を許さない彼の身なりに、僕は嫌な予感がした。
亮は顔を上げないまま、独白めいた口調で一言零す。
「カードを世に解き放つのにも……相応のリスクが必要なんだな……」
それっきり、何も言わなくなった。