「海へ行きたい」
そう言って彼は、目尻に穏やかな皺を刻んだ。
◆
目的地に辿り着き運転席から降りた。後部座席からボディバッグを取り出して肩に背負う。鍵はそのままに僕は歩き出した。
潮の匂いを引き連れた風は柔らかかった。頬を、髪を撫で、くるくると揺れる。その感触が彼の指先を彷彿とさせた。
歩調を緩め、目を閉じる。この心地好い風に身を任せたまま、すぐ傍の手摺りに身を乗り出してもいいと思った。しかし、一歩進む毎に無視できなくなってくる恐怖がそれを許してくれない。身体が手摺りに振れ、僕は堪らず目を開ける。少しだけ眩しかった。
手摺りの下では、細波が僕を手招いている。暫くもしないうちにそちらへ合流するのに、どうやら待ちきれないらしい。時折吹く強い風が、まるで「はやく来い」と言わんばかりに波立つ。ざざん、と音を立てて。
背中に貼り付いた鞄の中には、サリエリがいる。瓶の中で何も言わず水に沈んでいるのだ。それは僕の歩調に合わせてちゃぷんと踊る。
楽しそうな音だなと思った。まるでケーキショップで今晩のケーキを選ぶときの彼のようだ。とろりと目を細めてショーケースを見詰める姿を思い出す。
きっと彼は知らないだろう。僕は、あの蕩けるような赤い瞳を愛おしいと思いながら、どうしようもなく嫉妬していた。その視線を僕だけの物にしたい、どこにも逃げ出さないように繋ぎ止めておきたい。そう、何度思ったことだろう。
彼は確かにどこにも行かなかった。どこにも行かず、どこへも行けず、ただじっと真っ白な部屋のベッドに横たわって僕の来訪を待っていた。日を追う毎に痩せてゆく身体。脂肪も肉も削れ、最後は骨と皮だけになった身体。サリエリは癌だった。
手摺りが途切れ、桟橋に出る。両サイドでは帆のないヨットが乗船を待ちながら何隻も並んでいた。ゆらゆらと、波の動きに合わせて浮き沈みを繰り返している。ボディバッグを背中から外し、サリエリが沈む瓶を取り出すと、同じように揺れていた。
太陽光を受けいっそうの透明度を増した液体。その中で、喉仏だけになったサリエリがヨットと同じ動きを繰り返している。火葬の際、周囲の目を盗んで持ち帰り、それを僕は、今日まで水と共に瓶に詰めて保管していたのだ。
あの日、サリエリは「海へ行きたい」と言った。とても穏やかで、いつも通りの笑顔だった。だから僕は、その先の未来に僅かな希望を抱いてしまったのだ。「治ったら一緒に行こう」と。そんな日は絶対に訪れないと知っていながら、僕はサリエリに残酷な望みを与えてしまったのだ。
サリエリの骨を瓶越しで眺めながら、僕はずっと悩んでいた。あの約束を果たすにはどうしたらいいのだろう。殆ど軽口として出た自由な科白に、鎖をはめたのは僕なのだから、叶えてやらなければならない。誰にも相談できず、本人の希望など当然聞けず、導き出した答えは
桟橋の先に立つ。右手に持った瓶を開けて左手に向かい口を傾ける。最初に掌が濡れ、遅れて骨が転がり出てきた。象牙色のちいさな喉仏。美しい歌を紡いでくれていた名残をそろりと撫でる。
「……ごめんね」
そしてそれを、広大な海に向かって放った。
水平線に向かって緩やかな放物線を描き、ちゃぷんと着水する。そして一瞬だけ水面から顔を出したかと思うと、すぐに行方を見失ってしまった。
「ごめんね」
彼は喜んでくれるだろうか。ずっと行きたがっていた海に行けて、満足してくれているだろうか。
サリエリを見失った海面を眺める。
返事が欲しい。一言でいいから、これでよかったのか教えてほしい。ずっと枯れていた涙が、今更になって溢れてきた。遅すぎでしょ、と零しながら自嘲する。
「ねえ、サリエリ……」
僕はこれからどうすればいいかな。ずっと一緒にいたはずなのに、ずっとひとりだったんだ。
あんなに近くにいたのに、とても遠かった。当たり前だ。だってサリエリはもうこの世にいないのだから。
あの日、君から海へ行きたいと言われてすぐに来ていれば良かった。そうすれば、こんな無様な姿で終わらせる羽目にはならなかったはずなのだ。
波のさざめきが僕を手招いている。風がサリエリの指先を模して髪を引いている。水平線がゆらゆらと僕に呼びかけている。
見失ったはずのサリエリの骨が、再び浮かび上がってきた。
瞬間、僕の身体は真っ暗な水底に沈んでいた。