【5/4 新刊サンプル】Dekadenz und Verblendung - 2/3

二 それは高望みといえるのでしょうか

 この胸騒ぎはいつから始まっていたのだろう。
 強く自覚したのは、鮫島校長と電話越しに話す兄の横顔を見てからだ。一方的に話を聞くばかりで、ろくに反応を示さない彼の後頭部を眺めつづけることが耐え難かった。代わりに応対しようと前に出れば、何やら思案するように視線を落とす横顔が目にうつり、そこで強烈な違和感を覚えたのだ。
 兄――丸藤亮が返答を口にしないことの意味は、弟である翔は痛いほどに理解している。幼少の頃から続く兄の態度に、何度も憤りと悔しさを覚えたものだ。彼が誰かに本心を打ち明けることは滅多になく、それがあらぬ誤解を招いていることを、本人は自覚しているのだろうか。
 不自然なまでに聞き分けがよく、けれど翔の強い説得に、亮は肯定も否定もしなかった。思えばその時点から、彼の動向を警戒するべきだった。不安なときこそ兄の笑顔を信用してはならないと、繰り返し心に誓ったはずなのに。
 消灯も近い時間に寮を抜け出して、兄の眠る療養施設へと向かう。施設の裏手には療養者の寝泊まりする病室の扉が並んでおり、噴水の奥に目的の部屋がある。いつも通りノックをしながら声をかけるが、反応はなかった。今日は浜辺まで散歩に行ったから、疲れて寝ているのかも知れない、などという気分には到底ならず、悪戯に胸騒ぎが悪化しただけ。震える手で観音開きの扉を押すと、予想通りと云うべきか、最悪の光景が広がっていた。

「兄さん……ッ!」

 何のカモフラージュもされていなかった。たちまち、胸騒ぎだったものが別の感情へと形を変えていく。それが何なのか、怒りなのか悔しさなのかそれ以外なのか、吟味する余裕はなかった。呑んだ息が腹に落ちる衝撃のまま中に入り、奥にあるもうひとつの扉を開ける。
 常夜灯で仄暗く照らされた廊下は、病院らしい無機質さが漂っている。普段の翔ならその不気味な様相に震え上がって歩みを止めるが、肉親が失踪した今は完全に思考から消えていた。
 周囲を見渡しながら、足早に廊下を進む。トイレ、浴室、談話室。行きそうな場所をすべて周り、それから空き部屋も虱潰しに捜す。しかし痕跡すら見当たらず、暗影を投ずる感覚は強くなるばかり。そして最後の部屋も蛻の殻である事実を突きつけられた途端、翔は自立すらままならなくなってその場に崩れ落ちてしまった。

「ああ……」

 どうしよう。口には出せずとも、翔の脳内は不安の言葉でいっぱいだ。まさか本当に道場破りの人とデュエルを? 何度も思考をリセットして、けれど一番受け入れたくない可能性にしか辿り着けない。
 現実逃避なことはとっくに理解している。それくらいに信じたくなかった。
 右へ左へ、視線がさまよう。視界にうつる何もかもはただそこにあるだけで、とにかく縋りたくて堪らない翔の心を慰めるに至らない。浅くなっていく呼吸はしだいに酸欠へと近付き、堪らなくなって胸元を掻く。落ち着けと言い聞かせてくる自分の声が不快だ。
 しばらく肺腑の誤作動と格闘していたが、やがて落ち着きを取り戻す。翔はすぐさま立ち上がって来た道を引き返し、兄の病室を一目散に突っ切った。外に出ると、噴水が行きと同じく静けさに心地好いノイズを落としている。しかし翔の心が静まることはなく、深まる夜につられて冷えていく。翔はぶるりと小さく身震いした。
 走り出せば何のことはない。軽やかとは云えないが、しかし重くもなく、蓄積する疲労によって洗練されていく思考が翔の背中を押した。
 考えてもみれば、デュエルのできる場所など限られている。対峙する決闘者デュエリストの間に障害物がなく、そしてソリッドビジョンシステムによって投影されたモンスターの視認性を損ねない。これらの条件は、手つかずの自然の残る学園島と相性がよくないのだ。各種施設の周辺か、あるいは海岸くらいしか思い浮かばない。どれも療養施設の道すがらにある場所ばかりだ。
 坂を下っていきながら、まずは海岸を目指す。前方に人影が見えると、翔は目を凝らして睨む。

「あっ、アニキー!」

 こちらを向いて立つその影の正体は遊城十代であった。どうしてか、デュエルディスクを構えている。

「……翔?」

 十代は虚を突かれたような顔で翔を見た。

「アニキ、兄さんを見なかった?」
「カイザーを?」

 十代は小さく瞠目したあと、すぐに目を伏せる。

「……いや、アイツはカイザーじゃなかったし」

 まるで独り言のように小さな声だったが、翔の耳は聞き逃さなかった。十代の科白を引き金に、思考がめまぐるしく動きだす。最後に見た兄の表情とアニキの科白とが、まるで暗合を示唆するように結びつく。
 翔は尋ねずにはいられなかった。

「アイツって? 誰かと会ったの?」
「ああ。見たことねぇ変な奴が」

 翔の喉がハッと収縮する。それはもはや正解にも等しい答えだった。

「それだ! ソイツが兄さんに道場破りを仕掛けてきたんだよ!」

 一歩、十代へ詰め寄る。

「なんだ? それ」

 まるで理解が追いついていないかのような反応を示す十代に、翔は道場破りについて説明することはなかった。とにかく彼にも兄捜しを手伝ってほしい一心で、亮がデュエルをするということを端的に伝える。困っている人を放っておけない性格の十代なら、必ず応じてくれると信じて。

「アニキ! 一緒に兄さんを捜してよ。止めなきゃ!」
「……」

 十代の表情がみるみる曇っていく。同情とも無力感ともつかない複雑な顔で、どうやら返答に窮しているようだった。
 云いにくそうに口ごもること数秒、観念したように細く息を吐く。そしてようやく開かれた唇から出てきた言葉は、翔の期待するものと違っていた。

「止めてどうするんだ? いくらお前が説得したって、カイザーがデュエルすることを望んでいたら……しょうがないだろ」

 突き放すような物云いに反して、十代の顔にはやる瀬なさで満ちている。あたかも自分は無力で、他人の矜持に触れることすらもできないのだと勝手に諦めている。
 ――本当に?
 亮のその選択は命を脅かすものだ。実行すれば、たちまち死期を早めてしまう。あるいは、それが最期のデュエルとなるかも知れない。
 カイザーやヘルカイザーを名乗っていたころは、渋々だろうが十代の返答を聞いても納得しただろう。けれど今の彼はどちらどちらでもない。カイザーの名はとっくに棄て、ヘルカイザーも、公には行方不明ということになっている。異名という装甲を剥がされたあとは、丸裸も同然な〝丸藤亮〟なる男がそこにあるだけ。自分と同じ肉のかたまりでしかない存在が、身の丈に合わない矜持を胸に飾ったところで何の説得力もないのだ。
 道場破りという時代錯誤も甚だしい挑戦を受けて、ひとつしかない命を棒に振ることがどれだけつまらないか。彼だってわかっているだろうに。

「だからって……兄さんの命には替えられないじゃないか!」

 兄の望みを叶えて死んで、残された人はどうなる? 両親はおろか、祖父母すらも健在だというのに、それら凡てをなげうってでも叶えなければならない望みとは何なのだろう。
 ヘルカイザーの弟としての苦悩を、十代は何度も聞いてくれた。一歩引いた所から、小さくて弱い翔の背中を、押したり見守ったりするような言葉をくれた。
 けれど先ほどの科白はどちらでもない。まるで突き放されたように感じ、翔は怒りをぶつけながら瞼が熱くなっていく感覚に混乱する。
 翔の剣幕に圧されて、十代の表情が曇っていく。冷淡な科白を吐いたわりには複雑な感情を滲ませていたのが、より濃くなって翔を混乱させた。きっと、他に適当な言葉がみつからないのだ。
 少しの沈黙のあと、十代の唇が重たげに持ち上がる。

「わかったよ」

 誰よりも笑顔の似合う男は、誰よりも不器用な笑みを浮かべた。

「そんなおっかない顔すんなよ。俺も捜してやるから」

 そう云いながら、立てた親指を胸にあてる。まるで弟分の不安を払拭させようとするかのような仕草だった。
 全く別の人種のような十代と亮だが、実際はとてもよく似た気質を持っている。呆れるほどに頑固で、周りがどんなに説得しても一度決めたことは成し遂げるまで曲げない。あとは、誰よりも楽しそうにデュエルしていて、いつも人の前に立っていて――
 そんな気質に目が離せなくて、自分は遊城十代のことを〝アニキ〟と呼び慕っているのだ。取り留めのない思い出に浸りながら、翔は思い出す。
 二人の間に、これ以上の言葉が交わされることはなかった。視線だけで頷き合い、そして周囲を見渡す。
 この場所からでは海岸の様子を窺えない。翔は堪らなくなって走り出すと、少し遅れて十代も駆けだす。

「おい翔、あそこ!」

 背丈の差で翔より少しだけ見晴らしのいい十代が、目的の砂浜を指さして叫んだ。同時に、反対側の茂みが不自然に揺れる音も聞こえて、翔はどちらに意識をむければいいのかわからなくなった。足を止めながら茂みを一瞥し、そして十代の指先の延長へ視線を動かす。眼鏡で矯正した視界をもってしても十代の見たという異変の正体がわからず、結局は現地へ向かうことになった。
 二人の足が砂浜を踏む。細かい砂粒の集まりが彼らの体重を支えきるには心許なく、蠢きながら僅かに沈んだ。
 瞬間、潮風がびゅうと吹いて、翔と十代は反射的に身震いした。
 春とはいえ、深夜の浜辺は肌寒い。遮るもののない海の上で、自由を謳歌するように潮風が吹いているのだ。翔は暴れる髪に苛立ちを覚えつつ懸命に歩みを進める。一秒でも早く異変の正体を突き止めたかった。
 沈む砂に時折足を取られながら、どうにか目的の場所へ辿り着く。先に立ち止まった十代が指さす方へ目を向けると、一枚のカードが半ばほど砂に埋もれていた。
 翔のこめかみを冷や汗が伝う。妙な緊張感で指先が震えるも、どうにか押し留めて膝をつき、カードへと伸ばす。つまみ上げた角度に従って滑り落ちる砂を丁寧に払い、くるりと裏返す。初めに目に映ったのは、くすんだ緑に着彩された枠だった。

「……パワー・ボンド」

 その次に顕わになった図柄を見たときにほとんど驚かなかったのは、心のどこかで予感めいたイメージがあったからだ。ああやっぱり、という科白が喉元まで出かかる。
 傍らで翔を見守っていた十代が、痺れを切らして背後からカードを覗き込んできた。ほとんど無反応だった翔とは違い、カードの正体を認めた瞬間、小さく目を見開いて息を呑む。

「これ、カイザーの……」
「うん」
「カイザーはどこなんだ?」

 十代の問いに翔は首を振る。

「きっと、その道場破りに連れ去られたんだ」

 視線はカードに落としたまま。そんな翔がどんな表情をしているのか、十代は窺い知ることができない。

「捜さなくちゃ」

 おもむろに立ち上がる。その少年らしく可愛らしい声には、彼の兄を思わせる強い芯が籠もっていた。

「アニキお願い。ぼく、兄さんを捜さなきゃ」
「ああ。オレも手伝うぜ」

 決意にも似た友人の願いを、今度は一も二もなく引き受ける。たとえ大人であっても、当人の選択の中には、時に間違いもあるのだと思い知ったばかりだから。
 だから今度は、大切な兄の危機に冷静さを失っている友人を落ち着けるために口を開く。

「でも今日はもう遅い。今から捜しても、今度はオレ達が遭難しちまう。明日にしよう」

 翔は不満げに視線をうろつかせて閉口した。十代を言い負かすだけの反論が見当たらないのだろう。やがて深い溜め息をつき、蚊の鳴くような声で「わかったよ」と云った。

「寮まで送るぜ」

 十代の提案に翔は緩くかぶりを振る。

「ありがとう。でもぼくはだいじょうぶ。明日の朝、ここで待ち合わせよう」
「ああ」

 そうして浜辺を出た二人は、それぞれの寝泊まりする寮へ別れていった。

【次ページよりR18シーンのサンプルです】

2023年4月23日