【5/4 新刊サンプル】Dekadenz und Verblendung - 1/3

一 真砂の底に沈む

 耳障りな潮騒がまるでノイズのようだ。
 霞がかる記憶に比例して、音は無遠慮に耳介を越えて侵入してきた。冷えた外気、足下を揺るがす砂、潮気混じりの風が、痩けた頬を悪戯に撫ぜる。
 膝に力を込めても、カードを抜こうとすればたちまち力を失う。どれだけ言い含めたところで、言葉の建前を知らないカードにとっては見え透いた虚言でしかない。百も承知だ。
 心臓を弄ばれる痛みを通して感じる罵倒。デッキの底から、そのコンボは見飽きたのだと騒ぎ立ててくる。わかっている。しかし、今の自分にはこれ以外に勝つ方法を見出せない。勝つか、死期を早めるか。この二択こそ、今の亮に残された選択肢だ。
 対者の男は、不遜な笑みを隠そうともしていない。敗北を感じさせず泰然と構えるその姿に、亮は徐々に圧倒されつつあった。場に伏せた輪廻独断カードが発動できるなら勝機はある。しかし相手もまた、獲物が餌に食い付くのを待ち構えるかのように張られたカードがある。不吉な予感が全身に絡み付いて離れない。
 そもそも彼は〝サイコ流〟を名乗るデュエル流派の継承者だ。既視感のある人造人間が並ぶそのデッキのテーマは、アンチ・トラップの代名詞とも云えるあのカードを彷彿とさせる。形骸化したコンボの鍵にトラップカードがある限り、彼に勝つことは難しい。明確な劣勢ではないものの、かといって余裕がある訳でもなく、まるで背後に刃なり銃口なりを突きつけられているかのような緊張が、亮の思考を短絡的なものにしていく。
 確実な勝機を見出せない以上、自分にできることは、虚勢を張りながら彼の望むデュエルを続けることだけ。
 他に打てる手などないのだから。

「俺のターン……ドロー!」

 そうして腹を括った矢先のこと、ドローフェイズを宣言した途端に亮の心臓がひときわ大きく拍動した。山札に触れた指を拒むように電流が走る。それを押してカードを引けば、亮の行動を非難するように心臓が暴れ出す。息が詰まるほどの衝撃に膝が震え、どうにか踏ん張りながらトラップカードの発動を宣言しようとした。
 叶わなかった。
 言い切る前に頽れる。自重で埋もれた脚を、手を、浜辺の砂がさらりと包んだ。まるで追い縋るかのような感触が堪らなく不快で、脅すように鷲掴みする。けれども立ち上がれない。

「どうしたァ! 丸藤亮、デュエルを放棄するのか!」

 そして、無慈悲な怒声。答えなどわかりきっているだろうに、男に煽られた焦燥のまま、亮はかぶりを振って膝と腕に力を込めた。しかし、既に燃え尽きている男の気力がそう長続きするはずもない。

トラップカード、オープン……! 輪廻……独断……」

 発動に漕ぎ着けたところで、亮の身体はすぐに力尽きた。たったあれだけで勝機を感じ、無意識に安堵してしまったのだ。
 虚勢の笑みが本物にすり替わると、身体は砂浜に沈み、そして動けなくなった。

「おい、丸藤亮!」

 倒れたまま砂に埋もれてしまった男の顛末を見ていた猪爪誠は、ようやくただならぬ状況に気が付いた。

「デュエルを放棄して死ぬつもりか。狸寝入りなど許さんぞ!」

 思いつく限りの罵声を投げるも、まったく反応がない。
 確かにデュエルなどできそうな体調ではないことは薄々気付いていたが、まさか途中で意識を失うほどとは思いもしなかった。細波の音の中にノイズじみた音が混じる。顔を上げると、顕現していたはずのモンスター達が跡形もなく消失していた。彼がサレンダーした様子はない。当然、自分もしていない。つまり、デュエルディスクに仕込まれたバイタルチェッカーが、デュエル続行不可と判定したのだ。
 対者を下した訳でも、白旗を振られた訳でもない。流派の威信をかけて挑んだ決闘の結末は、どうとも判じがたいものになってしまった。これで雌雄が決したなどと思いたくない。猪爪の腸はこの上なく煮え滾り、暴れるままに歩き出す。憎きサイバー流継承者の男の許へ。

「貴様ッ……俺を愚弄するのもいい加減にしろ!」

 伏せる身体を転がし、胸ぐらを掴んで引き上げる。身体は一切の抵抗を示さず、遠心力に振られてだらりと揺れた。成人男性らしい確かな重み。しかし見た目によらず、軽い。

「……ッ!?」

 思わず息を呑む。
 猪爪の怒りは、たったひとつの驚愕で鎮火して消えてしまった。まるで冷水を浴びせられたかのように、悪寒すら覚えた。今更になって、自分は弱者を甚振っていたかも知れないと思いはじめる。

「あ、あり得ない! 弱者なのは、我らサイコ流の方だ!」

 怒声か、悲鳴か。猪爪の声は本当に聞かせたい相手に届くことなく砂の中に埋もれていく。
 何度も声を張り続けていたら、剣呑な気配が周囲に漂いはじめた。居住地から離れているとはいえ、ここは数多のデュエリストを育成するための有人島だ。彼の弟が学生として在籍していて、見つかれば面倒な事態になりかねない。猪爪は舌打ちした。
 胸ぐらを掴んだままだった手を脇に回して背負う。存外に軽い長身は簡単に持ち上がり、猪爪は鬱蒼とする森の中へ駆け込んだ。最低限の敷地だけ切り開いて残りは手つかずのままの、お世辞にも安全とは言い難い奥深く。万が一見つかって追われても振り切れる場所へ。無心に足を進めていると、不意に視界が開けた。

「ここ、は……」

 初めは森を出たのだと思った。しかし足を止めて振り顔を上げると、まだ鬱蒼とした木々が広がっていた。
 猪爪の背後には轍のようなものが藪に埋もれている。一見すると獣道にも見えるそれは、どちらかというと歩道に近い。かつて人の往来があったらしい道の先には、闇に紛れて建つ一棟の洋館があった。

「……」

 暗灰色の煉瓦を積み上げた建物は、まるで人々の記憶から零れ落ちてしまうことを望んでいるかのような
有様だった。くすんだ壁、虫食いの屋根、割れた窓ガラス。なにより、朽ちた扉とロープの張られた粗末な門が侵入を拒んでいる。猪爪は門柱に視線を遣って、ああ、と息を零した。
 建物の荒廃具合から、金持ち貴族が非日常を味わうために構えた別荘の名残かと思ったが、そうではないらしい。掠れて読みにくかったが、その門柱には確かに〝オベリスク・ブルー特待生寮〟と書いてある。
 猪爪はいまだ意識の戻らない長身を背負いなおす。もう一度周囲を警戒し、追っ手の気配がないことを確認すると、ロープを跨いで侵入する。
 蝶番の壊れた扉に手をかけると、それは耳障りな音を立てて無抵抗に侵入者を受け入れた。

2023年4月23日