※Part5、22話後
「忘れたか」
ルパンとの一騎打ちで、五ェ門の耳は確かにその句を聞いた。それは視覚を遮断してルパンの動きを捉えようとする最中のことであった。
研ぎ澄ました感覚は獲物の姿を変えた。在りし日の自分、まだ人斬りとして名を馳せていた頃の石川五ヱ門。鷹のような眼光で一直線に向かってくる気迫には、身も竦むほどの恐怖に駆られた。黒曜の双眸に迷いはなく、薄い唇の端は微細な笑みが滲む。正しく〝狂気〟と呼ぶに相応しい殺し屋の貌。自分もかつて同じ顔をしていたというのに、すっかり棚に上げて五ェ門は怖じ気づく。その恐怖は剣筋に決心をつけ、同時に鈍らせる結果を招いた。
順手に持ち替えた切っ先は、確かに獲物の心臓を捉えたはずだった。敵の動きを読み、見切りながら振り上げる完璧な一手。しかし柄を通して感じた掌の衝撃は、斬撃の甘さを嗤った。勝利を手にしても歓喜は湧かず、騒がしく早鐘を打つ心臓が痛むだけ。四肢は末端から急速に温度を失い、肺は酸素を取り込む役目を放棄した。渇きを覚えるほど目を見開いているはずが、視野狭窄は加速する。暴れ狂う感情の名前がわからない。
ただひとつ、取り返しのつかないことをしてしまったのだけは理解できた。
コンテナが唸る。
腹の底でその音を聞きながら、五ェ門は簡素なパイプ椅子に腰掛けていた。重く垂れる頭に引っ張られた肩は内巻き、平素の泰然たる姿はない。一回り小さくなったような痩躯。その視線は、ただ一点、ストレッチャーに横たわる手負いの男に注がれ続けていた。冷ややかな檻の中でごうんごうんと騒ぎ続けるそれを、五ェ門の聴覚はとうに拾うのを辞めてしまっている。ただ不快に下腹部が震えるばかりで、鬱々とした泥に沈む思考を引き上げるには至らない。
あの日、斬った相手の名を叫んで駆け寄った自分の何と無様なこと。親に捨て置かれた子供のように繰り返し「ルパン」と喚くその痴態は、我が魂と豪語する愛刀を取り落としてまですることだったのか。
捉えた獲物から目を逸らしたのは初めてだった。それは心眼に切り替えたのではなく、惑乱による反射的な行動だった。五ェ門は、細波が立つ湖面から不安定な波紋が広がる感覚に耐えられなかったのである。見えなくなった闇に意味はない。どんなに鋭く鍛えた刃も、獲物を捉えられなければ鈍と相違ない。積み上げた研鑽が瓦解し、砂と落ちてゆく。あの瞬間から、五ェ門の瞳は暗く塗り潰されている。
「ルパン」
斬り伏せた相手の姿を眺めるのも初めてだった。苦悶に歪む顔にはびっしょりと汗が浮き、全身が引き攣っている。彼の胸に巻かれた包帯を浸食する赤は、五ェ門にとって当然見慣れた光景のはずだった。しかしまるで目覚める気配のない男の様子に、全身が焦燥を訴える。五ェ門は、この感覚の意味を知らない。
ルパンと五ェ門の関係を、斬鉄剣が教えてくれることはなかった。ただの道具に心を問うなとばかりに黙したまま、主に振るわれただけ。本気の決闘から何かを見出すこともなく、それは闘いの中に答えを見出してきた自分を真っ向から否定されたような気分だった。
コンテナが唸る。自らが起こした事象を凡て振り返っても、懊悩は増すばかり。心臓を鷲掴みされているかような痛みは、これまで経験したどんな拷問よりも耐え難い。これを止める術を持たない五ェ門は、膝の上に乗せた拳に力を込める。
「ルパン」
蚊の鳴くような声は、罅割れた唇の周囲を漂うと力なく霧散した。
「刀を振るって見付からぬのなら、某は何処へ探しに行けば良い」
コンテナの中に垂れ込める夜が明ける兆しは、未だ遠い。